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- 2017年10月05日 19:28
【解散総選挙シリーズ1】 小池新党「希望の党」との合流は唐突にあらず -ずっと前から準備した大野党統合- (9/30 脱稿)
1/2<篠原の取り組んだ野党統合経緯>
12年末総選挙の大敗北・政権離脱以降、私は民主党の衣を脱ぎ捨てないと国民の信頼は回復できないため、菅・野田の元首相に退いてもらい、野党統合して党名変更しないとダメだと主張してきた。14年11月に野党統合は出来なくても、比例区は野党統一名簿で戦うべきだというペーパーを作成した。全ブロックではないが、大半のところで1議席は増え、その相乗効果で小選挙区でも有利になるという表も作成したところ、前原誠司、長島昭久、松本剛明、細野豪志の4人がこれを持って海江田代表に、「篠原さんのいうとおりのことをすべきだ」と直談判したそうである。この4人のうち、今や3人が既に民進党から離党している。
特に手を打たなかったため14年末の総選挙でも57議席が73議席に増えただけだった。そこで再び活動しだした。TPPを巡る意見対立から疎遠になっていた前原とは、私が京大教授たちの縮小社会研究会の講演で京都に出張した時に連絡をとったことをきっかけに、野党統合についても話し合うようになった。詳細は省くが、15年秋、途中でマスコミに漏れ、また岡田代表が決断せず頓挫してしまった。
その後、16年の参議員選前に小林節教授を先頭に再び野党統一比例名簿に取り組んだが、再び岡田代表が動かず、実現しなかった。
<前原代表選擁立の理由>
私は、16年秋前原を代表にすべく擁立した、素交会の仲間は私が前原を代表にということを聞いて驚きを隠さなかった。政策等に大きな違いがあるからであり、特にTPPでは正反対だった。それでも代表に担いだ。秘められた理由は、この大野党統合を大胆に実行するのは前原代表以外にないと確信したからである。そして、17年秋、再び前原を代表に担ぎ実現した。16年と比べて代表になることが確実視されていたので、農業関係者から「1.5%の男をなぜ代表にするのか」という抗議もあった。こうして、12年以来の念願を実現する時がやっと近づきつつあった。<小池都民ファーストの実現>
これより前、17年7月に新たな動きがあった。都議選で小池都民ファーストが大躍進し、国政への進出が取り沙汰され始めた。私は、そうなったらその流れを取り込み、大同団結して自公に立ちはだかっていくべきだと考えていた。(「小池都民ファーストの大勝利が民進党に示唆すること-信頼に足る受け皿があれば国民は自民・安倍政権など支持しない– 17.7.5」)<予想された「もり」「かけ」隠し解散>
9月19日突然解散風が突然吹き始めた。といっても私には予想通りのことである(代表選で政治的空白を作る余裕はないのだが? - 今秋解散・総選挙の兆しが見える - (8月2日両院議員総会) 17.08.19)9月22日に前原代表に対して、「早く代表として選挙に備えるべき。1つは、自由・社民との3野党共闘。2つ目は、既に出来上がっている共産党も含めた4野党共闘。3つ目は、小池新党との統合。3つ目がベスト。決断するのは代表だから早く決断すべし」とメールした。代表の答えは、「わかりましたやります」であった。
<前原代表が動き急転直下の合流に動く>
9月25日、希望の党が結党。もったいぶって様子を見ていた小池都知事が党首になった。絶好機到来である。翌日、前原代表に急げとメールした。「28日がタイムリミットなのはわかっていやっている」と返事があった。この間に前原代表は、小池知事とも話を始めていた。9月27日午後、希望の党への合流が民進党議員の間を駆け巡った。後で知ったことだが、午前中から幹部への根回しが行われ、午後は枝野、夕方は岡田と続いていた。
<不安になる枠組み>
全容はわからなかったが、大体の枠組みがわかってきた。率直に言って、民進党を小さな希望の党に身売りするかたちになっている。民進党公認は全員取りやめ、希望の党でもらうという手法は手荒すぎる。前原代表に一任するのはよいとして、党全体として一括で公認申請をすべきであって、個人個人がやるものではない。小池代表や民進党を離党し(除籍され)た希望の党の幹部が公認するかしないか決めるというのは釈然としない。私は心配になり、27日夜少々長い苦言のメールを送った。そこで解散の28日の朝、前原代表とは電話で話し、結構きわどい口論となったが、この詳細は省く。
午後1時30分からの両院議員総会では、わずか3項目の簡単なペーパーが配られただけで、説明には「?」が多かった。あとは新聞報道されているとおりである。



