- 2017年10月03日 10:47
ドイツ占領下ではナチスに協力も…パリでホロコーストの跡をたどる
1/2「ホロコースト」の重さ、軽さ
第2次世界大戦中に独ナチスが行ったホロコースト(組織的なユダヤ人虐殺)については、日本でも多くの人が一通りの理解をしていると思う。ホロコーストという言葉の元々はギリシャ語に起源があり、ユダヤ教で神に仕える犠牲に由来するという(百科事典マイペディアによる)。
ナチスによって殺害されたユダヤ人の数は、数十万人から最大では600万人ともいわれている。ある特定の民族を組織的に抹殺しようとし、実際に多数の人間を殺害してしまったというのは、何と恐ろしいことだろうか。書いているだけでも身震いがしてしまう。
しかし、日本にいるとホロコーストの重さは理解しにいくのかもしれない。ナチスについても欧州での認識・感覚とはだいぶ違うようだ。
ここ数年、日本ではナチスを思わせる制服を着たアイドル・グループが登場したり、大物政治家がヒトラーやナチスに言及してこれらを肯定するかのような発言をしたり、あるいは病院の院長がナチス礼賛ツイートを発するなどといった現象が目につくからだ。
「ナチス」、「ホロコースト」とは、はるか遠い国ではるか遠い昔に起きた出来事としてとらえられているせいなのかもしれない。
日本人にとっては「はるか遠い国の、はるか昔に起きた」出来事でも、今現在この世に生きているユダヤ人にとって、そして欧州に生きる多くの人にとっては、こうした言葉は忘れようとしても忘れられない過去だ。言葉が喚起するイメージは衝撃的だ。例え実際に犠牲者となったユダヤ人のことを直接知らなくても、学校などの教育の場やそのほかの様々な機会を通して何があったかを学習し、現在が過去につながっていることを欧州の人たちは知っている。
欧州各国では「ホロコースト否定」は犯罪
改めて振り返れば、第2次大戦(1939-45年)とは、ナチス率いるドイツとその同盟国(イタリア、日本など)で構成される枢軸国陣営と、米英・ソ連・中国などの連合国陣営が戦った世界的な戦争だが、元々はドイツ対ほかの欧州諸国との戦いであり、欧州は主要な戦闘舞台の1つとなった。
実際に戦闘行為が発生したそれぞれの国にとって、大戦の記憶は未だ強い。戦勝国側にいた英国やフランスでは第1次大戦も含めての犠牲者を追悼する国家的儀式が常時行われており、当時の体験をテレビ番組や映画にして過去の体験を忘れないようにしている。両大戦の犠牲者を追悼する記念碑も街角で目に付く。
ホロコーストやナチスはドイツにとっては自己の重苦しい記憶の1つであり、ドイツ以外の西欧諸国にとっても恐ろしい過去の一部である。
ドイツ、フランス、オーストリア、ベルギー、ルクセンブルクなどではナチスの犯罪を否定したり、矮小化した人間には刑事罰が下る。筆者が住む英国でもナチスを礼賛する言動はご法度だ。
アウシュビッツで感じた筆舌に尽くしがたい空気
筆者は十数年前に、ナチス統治下のポーランドに置かれていた、ユダヤ人の強制収容所の1つ、アウシュビッツに行ってみた。元々はポーランドの政治犯を収容するために作られたが、欧州各地から集められられたユダヤ人がここで強制労働を課され、組織的に殺害されていった。
ポーランドの古都クラクフから車で1時間以上かかってたどり着いき、地元のガイドの説明を受けながら、収容所の中を見た。
そこで感じたことを言葉で表すのは難しい。ナチスがユダヤ人から取り上げた靴やヘアブラシが山のように積まれた展示用ウィンドウを見た時に、絶句した。家族と一緒に行ったのだが、互いに一言も言葉を発することができず、帰路についたことを覚えている。
パリのホロコースト記念館とは

ホロコーストを学ぶための場所の1つとしてお勧めしたいのが、パリにあるホロコースト記念館(メモリアル・ド・ラ・ショア)だ。フランスではホロコーストを「ショア(Shoah)」(「カタストロフ」の意味)と呼んでいる。
第2次大戦勃発当時ユダヤ人が多く住んでいた場所に建設されており、2005年から一般公開されている。入場料は無料。

入口には「名前の壁」がある。第2次大戦中、ナチスによって軍事的に敗北したフランスは、中部ビシーに臨時の政府(「ビシー政権」)が設立され、国土の約5分の3はドイツ軍が占領する事態となった。
フランスには当時、約30万人のユダヤ人が住んでいたが、このうち約7万6000人(子供は1万1000人)のユダヤ人が複数の強制収容所に送られた。生き残ったのは2500人のみ。亡くなったユダヤ人の名前がこの壁に刻まれているのである。

中に入ると、地下室に記念碑が置かれ、周りにはいくつもの花輪が飾られていた。
展示室の最初の方には小部屋があり、「ユダヤ人ファイル」が保管されている。これはビシー政権が作成したユダヤ人の記録であり、フランスにとってはユダヤ人抹殺に協力したことを示す恥ずかしい過去だが、1997年、シラク大統領(当時)が記念館の前身となった「現代ユダヤ人文書管理センター」(CDJC)に寄贈した。ユダヤ人一人一人の名前が古びた紙に記されている。

ファイルは「占領者ナチスとビシー政権による」ユダヤ人迫害で犠牲者となったユダヤ人が記録されている。国外の強制収容所に送られる前に滞在した、国内の一時収容所にいたユダヤ人の記録も収められている。先に約7万6000人が国外の収容所に送られて命を落としたと書いたが、さらに約3000人がフランス内の収容所で亡くなり、約1000人が処刑されたという。
当時の在仏ユダヤ人約30万人の中で、約22万人はユダヤ人の抵抗組織や非ユダヤ人のフランス国民の手で犠牲者にならずに済んだといわれている。
しかし、ユダヤ人抹殺にフランス政府が関与したことを認めるまでには50年余の年月を必要とした。ビシー政権がユダヤ人市民の迫害に加担していた可能性を認めたのは1995年、シラク大統領(在任1997-2005年)の時だった。
展示室の中を進むと、ユダヤ人とフランスの歴史的な関係、ホロコーストに至るまでの経緯が資料や生存者の証言などによってつづられている。
説明はフランス語と英語の両併記になっており、時間をかけてじっくりと回ることをお勧めしたい。



