- 2017年09月19日 17:10
「3.11」から6年半:復興は遥かに遠い古里「浪江町」 - 寺島英弥
2/2「浪江焼麺太国」の太王
「復興なみえ町十日市祭」。原発事故後、浪江町の仮役場や仮設住宅が二本松市に設けられた縁で、JR二本松駅前で毎年11月、町伝統の「十日市祭」が町民の交流行事として催されていた(今年は浪江町で復活)。あちこちから集う人々が楽しみにしたのが、もちもちした太麺が特徴の「なみえ焼きそば」。2013年に初めて取材した際、町商工会青年部が運営する屋台の前に長い列ができた。やはり避難中の浪江小の児童らが手伝いをし、励ましたり笑わせたりしていたのが元青年部長の八島さんだった。ナポレオンの黒い二角帽子、赤いコート、金マントという装いで、「浪江焼麺太国」の太王を名乗った。太国の代表として、原発事故前から仲間と「なみえ焼きそば」で町興しを目指し、各地のイベントに出張。2013年には「避難中の町民を元気づけよう」と出場したご当地グルメの祭典「第8回B-1グランプリ」(愛知県豊川市)で、「浪江焼麺太国(なみえ焼きそば)」が見事優勝した。
「仲間づくりで始めたが、メンバーが郷土愛に目覚めてしまい、原発事故後は『浪江の人たちを元気にして避難生活を乗りこえよう、全国に浪江を発信しよう』と夢中で活動した。週末ごとに県内外の避難先から16 人ほどの有志が集まって全国各地に出掛けた」
活動は昨年まで続いたが、今年3月31日で浪江町の避難指示が解除されて、それを機に代表を辞めた。「『原発事故前の日常を取り戻すまで頑張りますからね』と以前、地元テレビの取材に答えたことがあった。現実にそうなってはいないが、一応のけじめだった」と八島さん。しかし、活動を喜んでくれた人ばかりではなかったという。
「避難生活が続く人たちは、まだまだ行く末を悩んでいる。新しい生活拠点を作った人も、仮設住宅にとどまった人もいる。私たちの活動がテレビに出る度、いろんな所で不快に思われていた人もいた。『賠償をもらっているんでしょ』『商売がうまくいって余裕があるんでしょ』といったことを、取引先で言われることもあった。自分の会社でも、休日のボランティアなのに、社長が遊んでいるのではと思われたかな。活動の仲間もそうだったのかもしれない」
涙がこぼれた
「なみえ焼きそば」と浪江町の名前、被災地の声を全国に発信した役割は果たしたが、そうした精神的な面だけでなく、遠路の出張活動は家庭的にも負担が重かった。「子どもたちとの時間がなくなった」と、八島さんは寂しさをにじませた。
前述のように、奥さんと2人の子どもは(義父母の実家がある)いわき市で暮らし、二本松市に避難した両親もいわき市に移って家を借り、八島さんは南相馬市に単身生活が続く。代表を辞めてからは毎週末、常磐道で家族の元に通っている。「娘は来年、東京の大学に進学したいという話になり、なおさら離れていくようで寂しい」。
2013年12月31日の筆者のブログ『余震の中で新聞を作る108~離れても、浪江を忘れず・その2/焼きそばの意味』に、八島さんから当時聞いた話を筆者はこう記していた。
【「今年(2013年)の夏、茨城県の笠間市から浪江町の子どもたちを招待するイベントがあったのだが、小学4年の長男は『行かない』と言った。なぜ?と問うと、『だって、夏休みは、こっち(いわき)の友だちと遊ぶ約束をしているから』と答えた。それを聞いて、ああ、だめだな、と思った。古里につなぎとめたいという大人の気持ちとは別に、この2年半余りの間、子どもには子どもの人間関係ができて、それを守るのに必死なのだな、と」
娘さんはある時期、父親と話さなくなったといいます。理由を聞くと、太王の姿がテレビでも知られるようになり、「あのお父さん?と、学校で言われるのがいや、と言った」。娘さんは2012年3月、当時の避難先の新地町で小学校を卒業し、その折、6年間の思いを込めた「親への手紙」を書きました。こんな内容だった、と八島さんが話してくれました。
「震災があって、私は浪江を離れて2回も移動したけれど、悪いことばかりじゃなかった。お父さんも頑張った。浪江の友だちは今まで通りだし、学校の絆は強まった。新しい友だちもできた。だから、心配しなくていいよ」
「いいことばかり書いてくれた。こんな(太王の)格好をしていては恥ずかしいのか、と思い、肩身を狭くしていたんだ。そんな手紙をもらって、涙がこぼれた。うれしかった」】
「再びまとまれる場所を」
「〈原発事故〉来春再開の小中『通学せず』95%福島・浪江の保護者調査」という記事が『河北新報』に載ったのは、8月23日。町教委が来年4月に再開する小中学校に子どもを通わせるかどうか、避難先の保護者に問うたが、95.2%が「意向なし」と回答した。原発事故前、町内には約1700人の児童生徒がいたが、全国47都道府県に避難し、転校しているのが現実だ。
「皆さん、頑張っていきましょう」「全国の浪江町民の住む町へ出張販売致します」「つくばで息子達と再開致しました」「浪江町の復興のお役に立てればと思いながら日々頑張っております」――。
八島さんが工業部会長を務める浪江町商工会のホームページ。「事業再開情報」に会員たちのメッセージが載っている。再開先の住所を見ると、本宮市(福島)、相馬市(福島)、福島市(福島)、つくば市(茨城)、南相馬市(福島)……。それぞれに語りつくせぬ物語があるのだろう。古里に戻ったのは、八島さんの青年部時代の仲間では電気店が1軒だけという。冒頭に紹介したような家屋調査を行うときには、町を回ると、いろんな人と声を掛け合う。
「『今、どこにいるの?』から話が始まるが、避難生活が長くなって、帰りたくても帰れなくなったという状況を異口同音に聞く。このままでは、町民がどんどんばらばらになっていくだけ。どこかに、再びまとまれる場所をつくってほしい」
原発事故後、八島さんが「なみえ焼きそば」の仲間だった商工会青年部有志と仮役場に馬場有町長を訪ねた時、町再生の危機感からこう提案した。だが、話はまとまらず、町民それぞれの苦難の道が分かれた。
原発事故からの6年半とは、何だったのか――。
画像を見る「なみえ焼きそば」の太王になって子どもと交流した八島さん。子どもたちの笑顔が何よりの救いだ(2013年11月23日、二本松市で)



