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- 2017年09月20日 08:57
板橋からのインデペンデンス・デイ 練馬区独立70周年
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昭和20年8月、終戦。
翌21(1946)年7月にはGHQ主導で民主化を進めてきた政府は、地方制度改革4法を国会に提出、可決された。
この地方自治の法整備の流れを受けて、練馬地域では独立運動が再燃。
今度こそは!と、練馬区設置期成会では会長に加藤隆太郎都議、副会長に上野徳次郎板橋区議と、幹部に練馬地域選出の議員を据え来るべき時に備えていた。
一方、板橋区会でも練馬地域選出の議員たちによって練馬の分離独立の動議が提出され、練馬区設置の意見書が可決されている。
この頃、戦災によって東京都の人口は800万人から400万人に半減。都心部の空洞化と郊外へのスプロール化が進んでいったため、東京都では35区から区の数を縮小する再編成が大きな課題となっていた。
そこで東京都長官の諮問機関 東京都区域整理委員会が立ち上げられ、区の数をどこまで絞り込むか話し合われた。その委員58人の中に、練馬区設置期成会会長の加藤隆太郎都議がメンバー入りを果たしている。
戦時中は時節を考慮して軍人を期成会会長に据えたが、戦後はこちらから乗り込んでより大きな力を借りる、中央突破を狙う作戦に出たのだ。
練馬区設置期成会は東京都区域整理委員全員に懇請書を発送。『練馬区独立は当地住民の多年の翹望』と、首を長くして待ち望んでいたことを切々と訴え、加えて練馬管内2万3千世帯の連判状も揃えている。
ところが!
東京都区域整理委員会は35区を22区にと回答。練馬地域は板橋区に編入されたままとなっていた。
手紙や連判状では効果がない……。
となると直接会って話をした方が手っ取り早い。
練馬区設置期成会メンバーは安井誠一郎都長官や区域整理委員会の小委員会メンバー19人に対して陳情を行い、さらに東京都の各区会議長や内務省への働きかけを間断なく行い、猛運動を展開した。
さらに今回はもっと大きなところをと、GHQも訪問している。
地方制度改革を推し進めるGHQならきっとわかってくれるはず。
東京都をも動かしてくれるはずと期待に胸膨らませ、丸の内まで出向いたことであろう。
ところが。
『説明の中に『独立』と出てくるので、被占領地下の日本からの独立かと誤解されピストルを持ち出されてすごまれた』
独立戦争や南北戦争を経験しているアメリカさんは「何ぃ⁉」と。
のちのグラントハイツ・アメリカ空軍家族宿舎として接収していた地域が『独立』すると言い出したのだから、そりゃ慌てたはず。
その翌日、GHQ担当者が練馬支所まで赴いて、事の次第をじっくり取り調べして帰っていったと記録されている。
この時の陳情に行ったメンバーは『独立じゃなくて分離と言っておけばよかった~』と、恐怖体験を語り伝えている。
そんなすったもんだを乗り越えて、東京都区域整理委員会では練馬区設置を容認する方向へと話が向かっていた、そんな時に事件は起こった。
昭和21年11月18日。
世田谷区の玉川地区住民が独立を求めて東京都区域整理委員会に大挙して陳情にやってきたというニュースが駆け巡った。東京都が35区を22区に圧縮しようとしている流れの中で、またひとつ独立を求める地域が出てきたのだ。
まずい、まずすぎる。
同年12月。東京都区域整理委員会が安井誠一郎都長官に提出した答申には、練馬を加えない『22区案を適当と認める』とあった。
案の定。 この時、芝・麻布・赤坂区が港区に統合させる東京都案を地元が否定するなど各地で不満が噴出していた。このような混乱もあって、練馬区新設については22区成立後、また日を改めてということになった。
こうして昭和22(1947)年3月5日、東京都は正式に22区制を告示している。
ただこの時、オトナの事情が働いたようで、東京都は練馬区独立に関しては容認の方向に舵を切っていた。告示1週間後の3月12日、安井都長官は牛田板橋区長に対して、練馬支所管轄区域を分離独立することを板橋区会に提案するよう求めている。
翌13日、板橋区会が招集され、練馬地域の分離独立が可決した。
やった、ついに独立!
とはいかないのが、今回の話。
可決はされたが、東京都22区が発足する3月15日まで残り2日。
たった48時間で新しい区の手続きが整うはずもなく「残念ですが、時間切れ」という形で、練馬地域は板橋区として22区制がスタートしている。
まさか時間までが邪魔するとは。
このがっかり感、察して余りある。
ただ、ツキはまだ残っていた。
昭和22年4月5日に行われた板橋区長選挙は牛田正憲氏が初代公選区長として当選し、同じ日に行われた東京都長官選挙では安井誠一郎氏が公選により第8代都長官に就任している。練馬地域にとっては事情が分かっているふたりが引き続き板橋区と東京都のトップに就任。
ラッキーが重なった。
この年の4月は新体制に基づく選挙が集中して実施され、国政選挙に続いて4月30日には都道府県区市町村会議員選挙も行われた。板橋区議会議員選挙では定数45のところ練馬地域からは19名が当選。過半数には至らなかったものの4議席増やす躍進を見せた。
そして昭和22年5月3日、日本国憲法と地方自治法が同日施行されている。すると今度は新地方制度下において、改めて練馬地域の独立を確認する手続きが必要になった。
もうやだぁ…と腐らなかった練馬の先人は偉い。

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この地方自治の法整備の流れを受けて、練馬地域では独立運動が再燃。
今度こそは!と、練馬区設置期成会では会長に加藤隆太郎都議、副会長に上野徳次郎板橋区議と、幹部に練馬地域選出の議員を据え来るべき時に備えていた。
一方、板橋区会でも練馬地域選出の議員たちによって練馬の分離独立の動議が提出され、練馬区設置の意見書が可決されている。
この頃、戦災によって東京都の人口は800万人から400万人に半減。都心部の空洞化と郊外へのスプロール化が進んでいったため、東京都では35区から区の数を縮小する再編成が大きな課題となっていた。
そこで東京都長官の諮問機関 東京都区域整理委員会が立ち上げられ、区の数をどこまで絞り込むか話し合われた。その委員58人の中に、練馬区設置期成会会長の加藤隆太郎都議がメンバー入りを果たしている。
戦時中は時節を考慮して軍人を期成会会長に据えたが、戦後はこちらから乗り込んでより大きな力を借りる、中央突破を狙う作戦に出たのだ。
練馬区設置期成会は東京都区域整理委員全員に懇請書を発送。『練馬区独立は当地住民の多年の翹望』と、首を長くして待ち望んでいたことを切々と訴え、加えて練馬管内2万3千世帯の連判状も揃えている。
ところが!
東京都区域整理委員会は35区を22区にと回答。練馬地域は板橋区に編入されたままとなっていた。
手紙や連判状では効果がない……。
となると直接会って話をした方が手っ取り早い。
練馬区設置期成会メンバーは安井誠一郎都長官や区域整理委員会の小委員会メンバー19人に対して陳情を行い、さらに東京都の各区会議長や内務省への働きかけを間断なく行い、猛運動を展開した。
さらに今回はもっと大きなところをと、GHQも訪問している。
地方制度改革を推し進めるGHQならきっとわかってくれるはず。
東京都をも動かしてくれるはずと期待に胸膨らませ、丸の内まで出向いたことであろう。
ところが。
『説明の中に『独立』と出てくるので、被占領地下の日本からの独立かと誤解されピストルを持ち出されてすごまれた』
独立戦争や南北戦争を経験しているアメリカさんは「何ぃ⁉」と。
のちのグラントハイツ・アメリカ空軍家族宿舎として接収していた地域が『独立』すると言い出したのだから、そりゃ慌てたはず。
その翌日、GHQ担当者が練馬支所まで赴いて、事の次第をじっくり取り調べして帰っていったと記録されている。
この時の陳情に行ったメンバーは『独立じゃなくて分離と言っておけばよかった~』と、恐怖体験を語り伝えている。
そんなすったもんだを乗り越えて、東京都区域整理委員会では練馬区設置を容認する方向へと話が向かっていた、そんな時に事件は起こった。
練馬大根とともに勝ち取った独立
昭和21年11月18日。
世田谷区の玉川地区住民が独立を求めて東京都区域整理委員会に大挙して陳情にやってきたというニュースが駆け巡った。東京都が35区を22区に圧縮しようとしている流れの中で、またひとつ独立を求める地域が出てきたのだ。
まずい、まずすぎる。
同年12月。東京都区域整理委員会が安井誠一郎都長官に提出した答申には、練馬を加えない『22区案を適当と認める』とあった。
案の定。 この時、芝・麻布・赤坂区が港区に統合させる東京都案を地元が否定するなど各地で不満が噴出していた。このような混乱もあって、練馬区新設については22区成立後、また日を改めてということになった。
こうして昭和22(1947)年3月5日、東京都は正式に22区制を告示している。
ただこの時、オトナの事情が働いたようで、東京都は練馬区独立に関しては容認の方向に舵を切っていた。告示1週間後の3月12日、安井都長官は牛田板橋区長に対して、練馬支所管轄区域を分離独立することを板橋区会に提案するよう求めている。
翌13日、板橋区会が招集され、練馬地域の分離独立が可決した。
やった、ついに独立!
とはいかないのが、今回の話。
可決はされたが、東京都22区が発足する3月15日まで残り2日。
たった48時間で新しい区の手続きが整うはずもなく「残念ですが、時間切れ」という形で、練馬地域は板橋区として22区制がスタートしている。
まさか時間までが邪魔するとは。
このがっかり感、察して余りある。
ただ、ツキはまだ残っていた。
昭和22年4月5日に行われた板橋区長選挙は牛田正憲氏が初代公選区長として当選し、同じ日に行われた東京都長官選挙では安井誠一郎氏が公選により第8代都長官に就任している。練馬地域にとっては事情が分かっているふたりが引き続き板橋区と東京都のトップに就任。
ラッキーが重なった。
この年の4月は新体制に基づく選挙が集中して実施され、国政選挙に続いて4月30日には都道府県区市町村会議員選挙も行われた。板橋区議会議員選挙では定数45のところ練馬地域からは19名が当選。過半数には至らなかったものの4議席増やす躍進を見せた。
そして昭和22年5月3日、日本国憲法と地方自治法が同日施行されている。すると今度は新地方制度下において、改めて練馬地域の独立を確認する手続きが必要になった。
もうやだぁ…と腐らなかった練馬の先人は偉い。



