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親の重力圏からの脱出手段としての、ゲーム、アニメ、ライトノベル

 「萌え」や「オタク」がカジュアル化してきている昨今はいざ知らず、数年前までのオタク界隈は、“コミュニケーションの不得手な人間のシェルター”“リア充に曝されない場所で、のんびりできる安全地帯”としても機能していた、と私は記憶している。とりわけ、オタクバッシングが根強く、コミュニケーションに長けた人間がオタク界隈に流入すること自体が稀だった1990年代〜2003年頃までのオタク界隈は、外部からの風当たりは強くとも、内輪に入ってしまえば快適な時間を過ごしやすかった。スクールカースト低位の人達の駆け込み寺として、オタク界隈はかなり貴重な場を提供していた。

 けれども“あんた、ママのお人形で終わるぜ?” - シロクマの屑籠(汎適所属)をまとめるうちに、もしかすると、“ママのお人形”になってしまいそうな人にとって、母親の重力圏から一定の距離を保って伸び伸びとしていられる、数少ない領域としても機能していたのでは?という風に考えるようになった。

  1990年代以前であれば、親の押し付ける価値観や親の情緒的な重力圏から離脱する方法として、“グレる”という選択肢がしばしば選択された。いわゆる不良や校内暴力や暴走族に染まっていく生徒のなかには、もちろん極度の放任主義の結果そうなっていった者も多かったけれども、正反対に、親からの過剰な期待や要望に応えざるを得ない立場に対する痛烈な反乱として、親の価値観や情緒的な重力圏の正反対の場所へと飛び込む者もかなり混じっていたと記憶している*1。いわゆる“良い所の子が派手にグレる”などというのも、それはそれで思春期にありがちなテンプレートの一つだった。

 でも、こうした古典的な“グレかた”というのは、親に真正面から反発するために相応のエネルギーが要るし、たぶん現在の流行でもない。派手な反抗に手応えを添えるような、権威的な父親の影も最近はかなり少なくなってしまった*2。それに、“グレる”際に仲間とつるもうと思ったら、コミュニケーションを担保する為の何らかの能力が求められる----それは腕力かもしれないし、判断の機敏かもしれないし、“狭義のコミュニケーション技能”かもしれない。どれもこれも、勉強部屋と学校と塾を往復するばかりの子にはアクセス困難なものばかりである。塾や子ども部屋に閉じ込められていた度合いが高ければ高いほど、“立派にグレる”ためのリソースは手に入りにくくなってしまい、古典的かつ“立派にグレる”のは困難になってしまう。今日日、放任主義で育った子ならともかく、“良い子”として育てられた子が“立派にグレる”のは今はかなり大変だ。
 

勉強部屋の小さなシェルターとしてのゲーム、アニメ、ライトノベルetc...


 その点、アニメやコミックやゲームの世界に耽溺するだけであれば、塾や子ども部屋に閉じ込められている度合いが高くてもどうにかコンテンツにアクセスできる可能性があるし、“グレる”ために必要な腕力やらコミュニケーション技能やらも必要無い。携帯用ゲーム機、テレビ、パソコン、ライトノベルなんかに手が届けば大丈夫だし、それらをすべて制限されている家というのはさすがに珍しい。“良い子教育”にかなり雁字搦めの過程でも、ゲーム機がダメでもテレビやPCは大丈夫だったり、本を読めと五月蝿いけれどもライトノベルも調達できる、とか、どこかに穴が開いていることが多い。そして、脳内補完や脳内二次創作のやりかたさえ覚えてしまえば、勉強部屋と塾と学校を往復するだけの日々であっても、想像力の世界のなかでは母親の重力圏の外側に逃れて過ごすことができる…。

 母親の重力に魂を奪われた思春期の、ささやかなシェルターとしてのオタク趣味。

 最初は萌芽に過ぎないかもしれない。
 けれども特別なゲームや憧れのキャラクター達が、(親の価値観とは別個の)特別な価値や意味を持つようになれば、やがては自意識を守る大きな砦の土台へと成長するかもしれない。これは、かつての“グレる”に比べれば表面的には派手さを欠いているけれども、親の情緒的な重力圏から脱出する為のリソースが制限されている子どもにとってはけっこう貴重な手段のひとつなんじゃないだろうか。そして、反社会的な行動を必ずしも必要としないという意味では、“グレる”よりも幾らか迷惑が少ない。とりわけ、願望と想像力を豊かに膨らませることと、現実検討との峻別がきちんと出来るぐらいに訓練されたオタクになれる限りにおいては、迷惑が少ないと言ってしまって差し支えないだろう。
 

……本当に、重力圏から脱出できたの…?


 ただし、“良い子にとってのオタク趣味”というささやかなシェルターが、真の意味で“親の情緒的な重力圏からの脱出”に該当するのかは、検討の余地が残っている。

 例えば昔の“グレる”の場合にしても、“グレる”という行動が、親の重力圏や価値観を裏返しにしただけの、単なるアンチテーゼであり続ける限りは、本当の意味では情緒的な重力圏を離脱したと言うことは出来ない。この手のグレた本人が、自分自身が親になった頃になって「この子には私の過ちを繰り返さないで欲しい」などと言いながらも同じ親子関係を再生産してしまったとしても、まったく不思議ではない。

 “よい子”がオタク趣味の世界を確保した場合にも、こうした疑問の余地がある。例えば、現在でもオタク界隈に根強くみられる「いつまでも終わらない夏休みへの耽溺」「少年時代や学生時代へのコンテンツの異様な偏倚」といった特徴は、心的成熟プロセスの何処かが妙なことになっているような印象を与えるし、そうでなくても、ライトノベルの世界を筆頭とする「女の子がやたらと憬れの対象になりがちで、憬れの対象になるような男の子の出番がそれほど多くはないコンテンツ消費状況」には、本来、それなりに首をかしげてみたって良い筈なのだ。あのあたりをみるにつけても、目の大きなアニメ絵の女の子達の溢れる世界は、本当に、親の情緒的な重力圏の外側なのだろうか?とりわけ、母親の情緒的な重力圏の外側と言ってしまって構わないのだろうか?それとも…!?

 とはいえ、いわゆるオタク趣味の世界がかりそめのエクソダスだとしても、親の情緒的な重力圏の底で窒息しかけている人には一定の福音になるだろうし、「もしアニメやゲームがなかったなら、俺の人生はもっともっと酷いことになっていたかもしれない」という人は確実に存在する。“グレる”のが困難な情勢のなかで、親の重力から逃れたところに思春期の砦を築くための数少ない手段としてのアニメやゲームやライトノベルに、意外とたくさんの人が助けられているんじゃないだろうか。
 

補足:ほかの「カウンターカルチャー」は?


 ちなみに、親の情緒的な重力圏の外側を確保する手段としては、もちろん各種「カウンターカルチャー」も有効だろう、とは思う。ただし、ライトノベルやゲームなどとの間には、コストやアクセシビリティの面において若干の差はあるかもしれない。また、親に発見されて目くじらを立てられるリスクや、親の情緒的な価値観との差異化のしやすさという点でも若干の差があるかもしれない。

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*1:勿論、正反対の場所というのは、本当の意味での離脱ではなく、アンチテーゼとしてのニュアンスが強い限りは親の価値観から脱却したとはいえないし、親と自分との人間関係のテンプレをその場で繰り返す場合も少なくは無いのだが

*2:「少なくなってしまった」と書いたけれども、じゃあ多いほうが良いのか、と問われたら分からないところだが

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