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- 2017年07月30日 10:46
石川健治教授の「ウグイスの巣」としての「抵抗の憲法学」
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石川教授は、集団的自衛権は、安倍政権が生んだ「ホトトギスの卵」だ、と繰り返した。1949年の文部省教科書『民主主義』で、ウグイスの巣にホトトギスの卵を混ぜられた逸話が掲載されていたことを、石川教授は好んで紹介した。ウグイスの母親は全ての卵を温めてしまうが、先に孵化するのはホトトギスの卵である。そしてホトトギスによって、ウグイスの卵は駆逐されてしまうという(『世界』前掲論文その他)。
この逸話において、ホトトギスの卵はナチスであり、ウグイスの卵は善良なる市民である。文部省教科書『民主主義』(1949年)は、「民主主義の巣」の「愚かなうぐいすの母親」と「独裁主義のほととぎす」の逸話を、ナチス台頭時のドイツの歴史の説明で使っていた。
しかし安倍政権はホトトギスの卵だ、と叫ぶ石川教授の論拠は、依然として論拠が不明瞭である。「だって最初にいたウグイスの卵のほうが駆逐されてしまうんだよ」、といった感情論だけが先行している。
そもそもなぜナチスの歴史なのか。戦前の日本では、大正デモクラシー期に政党政治が開花し、運営された。加藤高明(憲政会)内閣による普通選挙法の制定に、清宮四郎が「法の破砕」を見出した時期だ。美濃部達吉は、やがて政党政治を公然と批判し、見切りをつけるようになった。その美濃部を失脚させたのは、「教育勅語」を国民に復唱させていた文部省も加担した大衆扇動運動だ。安倍ホトトギスは、日本の歴史で、どこにいるのか。
石川教授が自明視するのは、いずれにせよ、自分が、先に巣を独占していたウグイスのグループに属している、ということだ。そして他のウグイスたちに、次のように呼びかける。「安倍を許していたら、俺たちのほうが巣から追い出されちゃうぞ、早く奴らを駆逐しよう」と。石川教授の警鐘が正しければ、自分たちが駆逐されないように、ウグイスは、孵化する前にホトトギスの卵を、逆に駆逐しなければならない。実際に、石川教授らは、集団的自衛権の問題を超えて、倒閣運動を数年にわたって組織し続けている。
石川教授が属する「法律家共同体」の「ウグイス」たちは、「巣」を独占している。その既得権益を脅かすのは、安倍首相だけではない。国際政治学者はもちろん、世界の諸国や国連憲章が代表とする国際法規範群でもある。
結果として、日本の法律家共同体がガラパゴスと揶揄されることになっても、意に介さない。目標は、「ホトトギス」を駆逐し、「巣」を守ることなのだ。
石川教授は、安倍首相の改憲論に反対した立憲デモクラシーの会の記者会見の中で、次のように述べた。
憲法学者(と司法試験・公務員試験受験者)だけが知る「統治権」という謎のガラパゴス概念については、拙著『ほんとうの憲法』参照していただきたい。https://www.amazon.co.jp/%E3%81%BB%E3%82%93%E3%81%A8%E3%81%86%E3%81%AE%E6%86%B2%E6%B3%95-%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%86%B2%E6%B3%95%E5%AD%A6%E6%89%B9%E5%88%A4-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%AF%A0%E7%94%B0-%E8%8B%B1%E6%9C%97/dp/448006978X/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1501353283&sr=1-1
いずれにせよ驚くべきことに、石川教授の頭の中では、財務省は「統治権」をコントロールする機関であるらしい。「統治権」は、もともと実定法上の根拠がないガラパゴス憲法学の「道具」でしかないので、使用方法は自由自在、憲法学者のお好みのまま、である。だが、ここまでくると論理的一貫性を見るのは、簡単ではない。
安倍や国際法はホトトギス、憲法学や財務省はウグイス・・・綺麗な議論のように見えるが、論理的・実証的な説明は、施されていない。学術的議論の構図が、権力関係・人間関係そのままなのが、ホトトギスを駆逐してウグイスを守るためのガラパゴス憲法学の特徴である。
石川教授は、いったい何を信じているのだろうか。立憲デモクラシーの会の設立に、師匠である樋口陽一が立ち上がったとき、石川教授はそのスポークスパーソンの役回りを買って出た。しかし「立憲デモクラシー」とは何なのか。その声明文は「アベ政治を許さない」一色で、何が学術的規範の基準なのか、全くわからない。
2007年にひらかれたある座談会で、若き石川教授は次のように発言していた。
「立憲主義の用語自体、いまの若い研究者からすると、まさに樋口陽一の世界になっているわけです。これは樋口先生が、当時はチャレンジングな概念として意識的に構成してもち込んだはずだったのですが、しかし、結果的にはそれが非常に支配的になってしまい、近代立憲主義なる言説の磁場に、いわば自明のごとく包まれてやっている。私などは、どちらかと言うと、そういった磁場から距離を置いたり、解放されたいと考えてあれこれやっているのですが、一般には、どうも近代立憲主義という言説に包み込まれる。そうすると、戦後憲法学イコール近代立憲主義イコール樋口陽一イコール長谷部恭男というイメージで、つい戦後憲法学を見てしまうということが若い世代にはあるようなのです。」(「戦後憲法学を語る」『法学教室』2007年5月)
立憲デモクラシーの会は、「統治権のコントロール」を唱え、「国民主権」を擁護する主張を繰り返すが、若き石川教授は、10年前、次のように発言していた。「主権論をもち込みながら立憲主義を実現しようとすると、戦前で言えば美濃部達吉であり、戦後であれば樋口陽一のように、ある意味で不自然な議論をしなければいけなくなる」。(同上)
ガラパゴス「立憲主義」の「不自然な議論」を整理し、われわれの知的理解を深める著作を公刊したりすることへの関心を、石川教授は、もはや失ってしまったのだろうか。
師匠のために、倒閣運動の戦士として生きていく覚悟を定めたのだろうか。
もちろん、「ウグイス」が「ホトトギス」を駆逐するのに、立憲主義をめぐる議論の精緻化やら何やら、そんな面倒な議論は不要だ。ただ、大同団結して、「巣」を守る、それだけを目標にしていればいい。
憲法学者という肩書で政治運動をしているということは、どういうことなのか。「巣」を守りたい、潜在的な脅威を除去する、君はどっちだ?「ウグイス」なら「友」だ、「ホトトギス」なら「敵」だぞ・・・。
ガラパゴス憲法学のシュミット主義は、倒閣運動のために人間を振り分けるための道具なのか。
この逸話において、ホトトギスの卵はナチスであり、ウグイスの卵は善良なる市民である。文部省教科書『民主主義』(1949年)は、「民主主義の巣」の「愚かなうぐいすの母親」と「独裁主義のほととぎす」の逸話を、ナチス台頭時のドイツの歴史の説明で使っていた。
しかし安倍政権はホトトギスの卵だ、と叫ぶ石川教授の論拠は、依然として論拠が不明瞭である。「だって最初にいたウグイスの卵のほうが駆逐されてしまうんだよ」、といった感情論だけが先行している。
そもそもなぜナチスの歴史なのか。戦前の日本では、大正デモクラシー期に政党政治が開花し、運営された。加藤高明(憲政会)内閣による普通選挙法の制定に、清宮四郎が「法の破砕」を見出した時期だ。美濃部達吉は、やがて政党政治を公然と批判し、見切りをつけるようになった。その美濃部を失脚させたのは、「教育勅語」を国民に復唱させていた文部省も加担した大衆扇動運動だ。安倍ホトトギスは、日本の歴史で、どこにいるのか。
石川教授が自明視するのは、いずれにせよ、自分が、先に巣を独占していたウグイスのグループに属している、ということだ。そして他のウグイスたちに、次のように呼びかける。「安倍を許していたら、俺たちのほうが巣から追い出されちゃうぞ、早く奴らを駆逐しよう」と。石川教授の警鐘が正しければ、自分たちが駆逐されないように、ウグイスは、孵化する前にホトトギスの卵を、逆に駆逐しなければならない。実際に、石川教授らは、集団的自衛権の問題を超えて、倒閣運動を数年にわたって組織し続けている。
石川教授が属する「法律家共同体」の「ウグイス」たちは、「巣」を独占している。その既得権益を脅かすのは、安倍首相だけではない。国際政治学者はもちろん、世界の諸国や国連憲章が代表とする国際法規範群でもある。
結果として、日本の法律家共同体がガラパゴスと揶揄されることになっても、意に介さない。目標は、「ホトトギス」を駆逐し、「巣」を守ることなのだ。
石川教授は、安倍首相の改憲論に反対した立憲デモクラシーの会の記者会見の中で、次のように述べた。
「軍事組織を持つことの正統性が常に問われ続けるということとの関係で、大幅な軍拡予算を組むことが難しくなっている、という側面です。予算編成を通じて、国の財政権の行使に実際上とりわけ大きな役割を果たしてきたのは、大蔵省、財務省だと思いますけれども、なぜそういう財務官庁が軍拡予算についてブレーキになることができたのかというと、彼らによる財政権の統制に憲法上の根拠があるからであるわけで、それが9条とりわけその2項ということになるはずなんですね。石川教授は、必ずしも自衛隊は違憲だとは言わない。しかし違憲であるかのような状態においておくことによって「統治権のコントロール」が果たされるので、改憲してはいけないのだという。そして9条があるので、財務省が財政コントロールをかけることができる、という独自の理論を披露することにも躊躇しない。
・・・これらの、現在、現実に機能している統治権のコントロールが、今回の改憲提案のような形で自衛隊を憲法上正統化してしまうと、一挙に消えてしまうということになるはずです。この「一挙に消えてしまう」という点において、これは最も危険な提案になっている、ということを申し上げておきたいと思います。」(2017年5月22日)
憲法学者(と司法試験・公務員試験受験者)だけが知る「統治権」という謎のガラパゴス概念については、拙著『ほんとうの憲法』参照していただきたい。https://www.amazon.co.jp/%E3%81%BB%E3%82%93%E3%81%A8%E3%81%86%E3%81%AE%E6%86%B2%E6%B3%95-%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%86%B2%E6%B3%95%E5%AD%A6%E6%89%B9%E5%88%A4-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%AF%A0%E7%94%B0-%E8%8B%B1%E6%9C%97/dp/448006978X/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1501353283&sr=1-1
いずれにせよ驚くべきことに、石川教授の頭の中では、財務省は「統治権」をコントロールする機関であるらしい。「統治権」は、もともと実定法上の根拠がないガラパゴス憲法学の「道具」でしかないので、使用方法は自由自在、憲法学者のお好みのまま、である。だが、ここまでくると論理的一貫性を見るのは、簡単ではない。
安倍や国際法はホトトギス、憲法学や財務省はウグイス・・・綺麗な議論のように見えるが、論理的・実証的な説明は、施されていない。学術的議論の構図が、権力関係・人間関係そのままなのが、ホトトギスを駆逐してウグイスを守るためのガラパゴス憲法学の特徴である。
石川教授は、いったい何を信じているのだろうか。立憲デモクラシーの会の設立に、師匠である樋口陽一が立ち上がったとき、石川教授はそのスポークスパーソンの役回りを買って出た。しかし「立憲デモクラシー」とは何なのか。その声明文は「アベ政治を許さない」一色で、何が学術的規範の基準なのか、全くわからない。
2007年にひらかれたある座談会で、若き石川教授は次のように発言していた。
「立憲主義の用語自体、いまの若い研究者からすると、まさに樋口陽一の世界になっているわけです。これは樋口先生が、当時はチャレンジングな概念として意識的に構成してもち込んだはずだったのですが、しかし、結果的にはそれが非常に支配的になってしまい、近代立憲主義なる言説の磁場に、いわば自明のごとく包まれてやっている。私などは、どちらかと言うと、そういった磁場から距離を置いたり、解放されたいと考えてあれこれやっているのですが、一般には、どうも近代立憲主義という言説に包み込まれる。そうすると、戦後憲法学イコール近代立憲主義イコール樋口陽一イコール長谷部恭男というイメージで、つい戦後憲法学を見てしまうということが若い世代にはあるようなのです。」(「戦後憲法学を語る」『法学教室』2007年5月)
立憲デモクラシーの会は、「統治権のコントロール」を唱え、「国民主権」を擁護する主張を繰り返すが、若き石川教授は、10年前、次のように発言していた。「主権論をもち込みながら立憲主義を実現しようとすると、戦前で言えば美濃部達吉であり、戦後であれば樋口陽一のように、ある意味で不自然な議論をしなければいけなくなる」。(同上)
ガラパゴス「立憲主義」の「不自然な議論」を整理し、われわれの知的理解を深める著作を公刊したりすることへの関心を、石川教授は、もはや失ってしまったのだろうか。
師匠のために、倒閣運動の戦士として生きていく覚悟を定めたのだろうか。
もちろん、「ウグイス」が「ホトトギス」を駆逐するのに、立憲主義をめぐる議論の精緻化やら何やら、そんな面倒な議論は不要だ。ただ、大同団結して、「巣」を守る、それだけを目標にしていればいい。
憲法学者という肩書で政治運動をしているということは、どういうことなのか。「巣」を守りたい、潜在的な脅威を除去する、君はどっちだ?「ウグイス」なら「友」だ、「ホトトギス」なら「敵」だぞ・・・。
ガラパゴス憲法学のシュミット主義は、倒閣運動のために人間を振り分けるための道具なのか。



