- 2017年07月29日 08:36
『カエルの楽園』化している日本の政治
■『カエルの楽園』を読んで。
今更ながら、百田尚樹氏の風刺寓話『カエルの楽園』を読んでみた。1年以上前から読もう、読もうと思っていたものの、後回し、後回しとなり、今頃になってしまった。私の場合、ノン・フィクション本や実用書を好んで読むタイプなので、このてのフィクション本は滅多に読まない。学生時代は主に小説等のフィクション本ばかり読んでいたが、大人になってからは、フィクション本はほとんど読まなくなった。(漫画は別)
本書の前に読んだフィクション本が2007年に発売された橘 玲氏の『亜玖夢博士の経済入門』なので、実に10年ぶりのフィクション本となる。
ちなみに、百田尚樹氏のベストセラー小説『永遠の0』や『海賊と呼ばれた男』も、映画では観たが小説は読んでいない。他の人気作家のミステリー小説なども時間の節約のために映像として観ることが多い。もちろん、小説には映画では描けない面白みがあることは承知しているが、分厚いフィクション小説は見ただけでゲップが出そうになるので、なかなか食指が動かない。
前置きはこの辺にして本題に入ろう。本書にも、お約束のように以下の注意書きが書かれている。
「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体等とは一切関係がありません。」
いつもは無味乾燥に思える注意書きも、本書ではピッタリ、マッチしている。この注意書きが無ければ、ノン・フィクションと言ってもおかしくないほどのシニカルな寓話だった。寓話と言うよりも予言書としての役割も持っていそうな本であり、クスクスと笑える内容でありながらも、実に重い警世の書でもある。本書が映像化されるのは難しそうなので、活字で読んで正解だったのかもしれない。
■政治家達の罵り合いは、さしずめ「学級会議」
本書には何度も次のような台詞が登場する。
「そうだ、そうだ、その通り!」
カエルが言うと愛嬌があるが、現在の日本の政治を観ても、同じような感じになっているな…と思えた。
「あの政治家は失言したのでクビを切らねばなりません!」
「そうだ、そうだ、その通り!」
という感じで、後先何も考えず、その場の空気と感情だけで物事を決めてしまう人々。そして、内心ではおかしいと思いつつも、そのことについて誰も異議を唱えない。なぜなら、異議を唱えると、今度はその人物が批判の対象にされるから。
これはまさに「いじめ」の構図そのものであり、いじめを止めようとした人が、今度はいじめの標的になってしまうようなところは学校社会と実によく似ている。
現代の日本の政治家達の罵り合い(揚げ足取り)を観ていると、まるで小中学生の学級会議での光景を彷彿とさせるものがある。誰かが悪口を言ったとか、誰かが給食費を盗んだとか、学業とはほとんど関係のないことで、「あーだ」「こーだ」と延々と言い争っているような姿がオーバーラップする。
ここで、生徒達に対して「いいかげんにしなさい!」と注意する先生がいない。この場合、「先生」の役割を担うべきは、本来であれば「マスコミ」だが、その先生が率先して、「あーだ」「こーだ」と言って生徒達を引っ張っている(ミスリードしている)ような感じだろうか。
■『茹でガエルの失楽園』にならんことを…
つい最近までは、「若者が右傾化した」などと言われていたが、最近の政治を観ていると、「国民が左傾化した」のではないか?と疑いたくなる時がある。声の大きな左傾化している人々ばかりがテレビに映されるので、そんな錯覚を感じるだけなのかもしれないが、いずれにしても、道理が通用せず、明らかに善悪が転倒しているような言論が罷り通っているような世の中に末恐ろしさを感じる時がある。その感情は本書を読んで感じた“やるせない憤り”と軌を一にしている。
古今東西、予言書というものは、「このままいくとこうなりますよ」という警鐘を鳴らす役割を持っている。日本が百田氏の予言の通りにならないことを切に願うが、現在の政治を観ていると、そう安穏とはしていられないかもしれないな…と不安になる。
もし、本書の通りの現実が訪れれば、本書は予言の書だったということで歴史に名を残す名著となるだろう。逆に本書の予言が回避されても、過去の日本はこんな具合だったという社会的寓話として歴史に名を残すことになるかもしれない。もう既に多くの人が読まれた後だと思うが、まだ未読の人には是非、読んでいただきたい(未来の)名作だ。



