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木村草太教授の「将棋」としての「抵抗の憲法学」

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昨日、読売・吉野作造賞の受賞式を開催していただいた。学者には申し訳ない華やかな会となり、関係者・出席者の皆様にあらためて厚く御礼申し上げる。
 受賞作『集団的自衛権の思想史』は、集団的自衛権が違憲だという議論は、ドイツ国法学の影響が色濃い東大法学部系「抵抗の憲法学」の伝統に基づくものだ、と論じた。しかも沖縄返還にあたって政府が違憲だとし始めたにすぎない高度経済成長期・冷戦構造の産物だ、とも論じた。

 たとえば、首都大学東京の木村草太教授は、自衛権は憲法9条によって否定されている、しかし幸福追求権を定めた憲法13条で個別的自衛権だけが例外として許容される、と論じる。ところが、集団的自衛権はこの例外に該当しない、とも断定する(木村草太『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』他)。

 木村教授の発想は、本来は自然人の権利である幸福追求権を、法人としての国家が集合的にのみ適用するものだと考えている点で、根本的な錯誤を内包している。つまり日本領土が攻撃された場合にのみ政府は日本人の幸福追求権を守るべきだが、攻撃されるまでは守ってはいけないのだという。

しかし、これでは結局、単純に自国の領土が攻撃された場合には自衛権を行使してよいが、そうでなければダメだ、と言っていることと全く変わりがない。13条の参照は、全く何の意味もなく、単なる装飾である。結局、無意識のドイツ国法学の残滓に拘束されている発想が、本来の権利の主体である個々人を、国民という集合体に還元してしまっているのである。そこで本来は個人の権利である幸福追求権が、擬人的に捉えられる国家の権利の中で解消されてしまっている。

そもそも隣国であれば何が起こっても13条とは関係がないが、ひとたび自国の領土内で何かが起こればそれは13条を侵害する事態となる、といった極度に形式論的な発想は、現実に即しているとは言えない。たとえば隣国が侵略国に占領されてしまっては自国の防衛が不可能になる場合が、多々ありうる。その場合、隣国を支援することが自国民の幸福追求権の擁護につながるのは自明だ。木村教授は、日本の領土か否かという問いと、個々人の幸福追求権を守るべきか否かという問いを、混同誤認しているのである。

木村教授の推論は、国際政治学で「国内類推」と呼ばれる、国際法/国際政治に疎い者が陥る典型的な誤謬を示している。自然人と国家法人を根拠なく類似関係に置きすぎるので、本来の権利の主体としての自然人と権利保障者の国家の役割を区別せず、無批判的に同一視してしまい、論理の錯綜が生まれるのである。

自衛権は国際法の概念で、憲法典には存在しない。ところが強引に、たとえば国家の基本権概念を裏口から導入し、刑法の正当防衛などをあてはめて、自衛権の理解を捻じ曲げようとするのが、「国内的類推」に典型的に見られる誤謬である。観念論的なドイツ国法学の伝統に染まっている東大法学部系の憲法学者に、この錯誤の傾向が強い。

錯誤というだけではないかもしれない。集団的自衛権を根拠とする日米安全保障条約を国家安全保障の基盤に据えておきながら、それを無視しようとするのは、偽善的かつ欺瞞的なことだと言われても、仕方がないだろう。

ところが、華やかにテレビ等のマスメディアで活躍し、AKB48との共著(木村草太・津田大介・AKB48『日本一やさしい「政治の教科書」できました。』)などまで出している木村草太教授は、反安倍首相を鮮明にする特定メディアの常連コメンテーターのようになっており、「抵抗の憲法学」のドクトリンを広く社会に流布し続けている。その影響力は、絶大だ。

日本では、依然としてテレビに登場する学者が、最も強い影響力を行使する。そこでテレビに出やすくなるための議論を学者が提示しようとする現象まで、よく見られる。

マスコミを通じた絶大な影響力を誇る木村教授のポジションを理解するために、カギとなるのは、将棋、であるかもしれない。

木村教授は、将棋好きで知られている。単に将棋好きなだけではない。憲法解釈は将棋を指すように行うのが正しい、と公言している点が、木村教授の特色だ。

木村教授は、中学時代に校則が厳しくて抑圧されたため、憲法学者になった、と公言する(木村草太『憲法という希望』第四章)。中学校の先生に「抵抗」する代わりに、憲法学者となって政府に「抵抗」をしているというわけである。木村教授は、まさに「抵抗の憲法学」を、お茶の間の家庭向けに解説する伝道者だと言える。

戦後日本の憲法学は、「抵抗の憲法学」と称される。政府を制限することを立憲主義と呼び、権力に「抵抗」することが憲法学の役目だと自己規定するからである(拙著『ほんとうの憲法』参照)。この場合、「抵抗」の対象は、「政府」または「権力者」として、事前に規定されている。中学校の生徒が、校則を振りかざす教員に対する「抵抗」に憧れるのと同じで、憲法学者は、政府に対する「抵抗」に憧れる。そこでは、権力関係がまず固定されており、憲法解釈は、「抵抗」のための手段となり、道具となる。そして解釈の方法は、むしろ可変的となる。

木村教授は、このような「抵抗の憲法学」は、将棋に似ているという。どういうことだろうか。

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