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【赤木智弘の眼光紙背】急いては事を仕損じる

私がこれを書いている現在、旧厚生省官僚に対する連続殺傷事件は、犯人と思われる容疑者が自ら名乗り出たことによって、ひとつの区切りがつきそうではある。今回の話は、まだこの事件がどんな犯人がどんな目的でおこなっているのか、皆目検討もつかなかったころの話。

この事件について、19日の毎日新聞朝刊は「ネットに犯行示唆? ウィキペディア(*1)(以下Wikipedia)吉原さん「暗殺」」という見出しで、ネット上で殺害の予告がされていたという記事を掲載した。
記事によると、Wikipediaの「社会保険庁長官」という項目に、18日の正午過ぎ、第21代社会保険庁長官の吉原健二さんの名前の前に「×」がつけられ「×は暗殺された人物を表す。」と書く編集が行われていたという。
また、毎日新聞以外のメディアも、この記事を「毎日新聞がこう報じた」ということで、後追い報道をしていた。

一見、なんの問題もない記事のように見える。
この一連の事件、最初は18日の午前10時15分に、元厚生次官の山口剛彦夫妻が殺されているのが発見された。
その後、この殺人事件が大きくニュースで取り上げられる中、同日午後6時半ごろ、名前に×をつけられた吉原健二さんの妻である靖子さんが刺された。
そして、Wikipediaに記事に「×印」がついたのが、同日の正午過ぎ。つまり、吉原さんの項目に×がつけられたのは、事件の前ということになる。毎日の記者が喜び勇んで「これはスクープだ!」と慌ててペンを走らせる様子が目に浮かぶようである。

しかし、毎日の記者はもっとも大切なことを見逃していた。
Wikipediaの記事は、誰でも編集をすることができる。そしてその編集過程はすべて公開される。
Wikipediaの「社会保険庁長官」の項目を開き、一番上にある「履歴」のタブをクリックする。そうすると、社会保険庁長官の項目に対して、誰が編集したのか、登録者はハンドルネームで、非登録者はIPアドレスで表示される。そして「2008年11月18日 (火) 12:27 〜 12:32」にかけて、問題となっている「×をつける」編集がされている。
しかし、同じページの「凡例」というところを見てもらうと、そこに「日時はオプションで未設定ならUTC」という表記がある。毎日新聞の記者はこれを見逃していたのである。

UTCというのは「協定世界時」、すなわち国際協定によって維持されている世界共通の標準時である。
これに対して、日本の標準時は「JST」とよばれる。UTCよりも9時間進んでいるので、「+0900(JST)」などと表記される。
つまり、Wikipediaの「履歴」の項目で表示されている時間は、UTCであり、日本で読む場合にはそこから9時間進んだJSTに変換しなければならない。すると、12:27 (UST)というという時間は、JSTでは「21:27」分を表すことになる。
つまり、吉原靖子さんが刺されたのが午後6時過ぎ。記事の編集があったのは午後9時27分。×がつけられたのは完全に事件が起きたあとなのである。
この誤報について、毎日新聞はその非を認め、20日の朝刊とネットに謝罪の記事を掲載している。(*2)

このことに対して、毎日新聞と朝日新聞を蛇蝎のごとく嫌っているネット住民たちは大喜びで毎日新聞をバッシングする一方で、犯人扱いされた「×をつけた人」に対しては、やたらと同情的である。
しかし、私はこの「×をつけた人」を同情する気には、あまりならない。なぜなら×をつけた人の行いは、多くの人々に有益なWikipediaという場を破綻させかねない、迷惑極まりない行為であったからだ。

Wikipediaというのはネット上の百科事典である。
そしてWikipediaは不特定多数の編集を経ても百科事典であり続けるために、編集をする人たちにさまざまな呼びかけを行っている。
そのうち「ウィキペディアは何ではないか」という記事(*3)には、「(Wikipediaは)ニュース・ニュース速報の場所ではありません」という項目があり、ニュース速報は誤りや情報不足を多く含み百科事典としてふさわしくないと、ハッキリと示されている。
また、当然書かれる記事は「事実であること」が重要になる。
この「×をつけた人」は、吉原健二さんに×をつけて「×は暗殺された人物を表す。」と記している。しかし、実際刺されたのは吉原さんの奥さんであり、健二さんではない。さらにいえば、報道された時点では重体であったが、いまでは容体は回復している。
すなわち、吉原健二さんに×をつけたことは、完全な誤りであり、事実関係への注意を欠いていたことになる。

Wikipediaというのは、だれでも編集できる場であるからこそ、このようなルールを参加者の一人一人がしっかりと理解して記事を書くことが重要なのである。そうでなければ、記事はグチャグチャになって、信頼性の低いものになってしまう。それはせっかく多くの人が労力を割いて作り出してきた、さまざまな秀逸な記事の価値を貶める行為である。
もし×をつけた人が、本当にこの事件をWikipediaに掲載することが重要だと考えるのであれば、事件の容疑者が判明し、おおよそ確からしい事実がある程度出揃ってから、それらをまとめて、「社会保険庁長官」という記事に追記するのではなく、この事件独自の記事をちゃんと構築するべきなのである。
にも関わらず、×をつけた人は、そうした下準備をせずに、事件のわずか数時間後に、正しくない内容の編集を行った。

自らのスクープに目が眩み、時差に気づかずに記事を書いてしまった毎日新聞記者や、それを通してしまったデスク。その記事を検証もせずに紹介して、広く世間にでたらめを垂れ流してしまった各メディア。
そして、自らの自尊心を満たすためだけに、情報のチェックすらせず脊髄反射でWikipediaという、新聞ほどの影響力はないにしても、多くの人が利用する百科事典に記事を書き込んだ「×をつけたひと」は、立場こそ違えど、いずれも事実確認をおろそかにし、性急な記事を世間に送り出してしまったという点では同じである。
「急いてはことをし損じる」
有名なことわざであるが、これを気に、改めて他山の石としたい。


*1:インターネット上にある百科事典。みんなが知識を持ち寄り、より正しい辞書を作ろうという集合知的な考え方により、だれでも編集することができる。ただし、どこを編集したかは公開される。
*2:http://mainichi.jp/select/jiken/news/20081119k0000e040034000c.html
*3:http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%AD%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%A7%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B


プロフィール
赤木智弘(あかぎ・ともひろ)…1975年生まれ。自身のウェブサイト「深夜のシマネコ」や週刊誌等で、フリーター・ニート政策を始めとする社会問題に関して積極的な発言を行っている。近著:「若者を見殺しにする国画像を見る

眼光紙背[がんこうしはい]とは:
「眼光紙背に徹する」で、行間にひそむ深い意味までよく理解すること。
本コラムは、livedoor ニュースが選んだ気鋭の寄稿者が、ユーザが生活や仕事の中で直面する様々な課題に対し、「気付き」となるような情報を提供し、世の中に溢れるニュースの行間を読んで行くシリーズ。

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