記事

ルポ : 百田尚樹講演会中止騒動の真相 …「言論の自由」をめぐる論争から私たちは何を学ぶか

3/3

言論の自由は無制限ではない/言論の自由には対抗言論の自由も含まれる

「言論の自由」を阻害する・・・という意見が、この中止騒動には多数寄せられた。

これは普段、見るに堪えないようなヘイトスピーチまがいの発言をする人たちだけではなく、どちらかというとリベラル色のある保守的スタンスの文化人からも聞こえてきた。

しかし、本当にそうなのだろうか。最後にこれを検証して本稿をしめたい。

例えばヴォルテールの「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」やG.オーウェルの「(言論の)自由というのは何を置いても、みんなの聞きたくないことを語る権利ということなのだ。」の金言を持ち出す人がいる。

言論の自由は何にもまして重要なことだ。そしてそれは守っていかねばならない・・・当たり前のことだろう。

しかし、それをもってすべてが事足れりという議論がいかに甘いか。法的な議論という意味では浅はかで、残念ながら無知という他ないことになる。

(1)言論の自由は無制限ではない

一例をあげるだけでよい。

例えば、言論の自由の名のもとに、あなたの私生活やプライバシー、性癖や女性の趣向や家族や血脈を公然と書いて、さらには容姿や趣味嗜好、過去の赤裸々なエピソードを批判して、さらには百田尚樹氏がそうしたように、証拠もないのに「犯罪者」扱いされても問題ないか。もちろん問題でしょう。あなたは全力でその言論を取りやめるように抗議するでしょう。

「言論、表現の自由は絶対的なものではなく、他の名誉、信用、プライバシー等の法益を侵害しないかぎりにおいてその自由が保障されているものである」

これはプライバシー権についてのメルクマークとなった日本の判例のひとつ(「宴のあと」裁判)だ。表現の自由がすべてにおいて絶対ではないというのは、これ以外にもケースがありますが、ここでは一番わかりやすい例をあげておく。

一般的にいって、どんな人権であっても、それが他人の人権を踏みにじることを無制限に認められているわけではない。

もちろん、それが公権力によって恣意的に制限されるのであれば、それこそ「弾圧」である。

(百田尚樹氏は、自民党の議員との会合の中で「沖縄の2つの新聞は潰さないといけない」と発言したことが問題になったが、これを本当に政府が動けばこれこそまさに「言論弾圧」であろう。安倍総理が自らこれを「大変遺憾である」とし、この自民党議員の会合の主催筋はこの発言について謝罪している。)

しかし、それ以外にも、人権(言論の自由)と人権(個々人の権利)がぶつかり合うような場面では、結果として社会を健全なものとしていくために、「公共の福祉」という概念で言論は制限されてしかるべきとされている。

これについて、ARICの代表の梁は「交通ルールのようなもの」と筆者に説明してくれた。誰もが自分の自由を行使すると、ぶつかりあう場面が出てくる、それを整理してルールをつくれば、結局全員のメリットになる、と。それが「公共の福祉」という概念だ。

外国人とみれば犯罪者であると断言するような百田氏の発言や、あからさまに在日韓国人・朝鮮人に対する蔑視や差別発言をつづける百田氏を、自分たちに対する偏見を育て、様々な生活シーンでの差別を煽るものとみなして、そのような発言をしないことを求めるのは、これだけの外国人留学生がいる一橋大学であるなら当たり前の話であろう。彼らも含めて大学なのだから。

そのために反対派の主張は学内や学祭に関して、差別を含めたハラスメント防止のためのルールをつくろうというもので、それを遵守するならば百田尚樹氏講演会もよいという判断だったのだ。

(2)抗議する自由も言論の自由

言論の自由には対抗言論も含まれる。これも当たり前の話である。

あたかも百田氏は、抗議の声があがったからそれが言論の自由を阻害するということになるというが、そうすると、普段朝日新聞や沖縄の新聞を批判する百田氏は、新聞社の言論の自由を阻害することになるのではないだろうか。

「言論の自由は重要だ」というようなことを若手の政治評論家の方が語っているのも見たが、その方は、数年前に行われたフジテレビに対する韓流ドラマなどの放送中止を求めるデモのルポタージュで名をあげた方だ。そのとおりであれば、通称「フジデモ」は言論の自由を妨害することになるのではないだろうか。

こういった例を出すとキリがない。犯罪を助長するから、政治的に偏向しているから、もっと私的な話でいえば、嫌いだから・・・そのような合理・不合理問わず、あるものが行う言論活動に抗議するのはそれこそ言論の自由である。

もちろんそれが、右翼団体の街宣車が大音量で押しかけるようなものや、具体的に業務を妨害行動することを目的とするものならばダメだろう。それが公共の福祉の理論でもある。だが、通常に行われるようなものであれば、それはそれで認められなければならない。

中止を求めるのも言論の自由、それを判断してどうするか決めるのも自由。それが「言論の自由」なのである。

(3)何を学んだのか

今回の百田尚樹講演会中止にいたる決定をしたのは、主催者であるKODAIRA祭実行委員会である。そして、彼らは見事に学生たる筋を通したといえる。

それは外部の意見を遮断して、自治の原則を貫きとおしたところである。そのうえでの判断であるから、私はこれ以上何も言うことがない。

しかも、その判断に至るまで、それが傍からみれば混乱したものだし、一部の方が述べているように社会人なら許されないドタキャンのようなものであるかもしれない。しかし、反対運動との折衝も含めて、その意見を聞きながら、結局は別の理由との兼ね合いで判断したが、中止を決断した。

これで彼らは学んだはずである。

また、この件に触れた人々もまた学んだであろう。

ひとつは「言論の自由」という難題が社会的にどのように波紋を呼んでいくことか。
もうひとつは、差別発言をした人がどのように社会的に取り扱われることになるか。

ちょうど、学問の自由や言論の自由に関して、アメリカで非常に参考になる事例があったので、これを紹介して終わりにしたい。

言論の自由は無制限ではないということを再度確認されたい。

ハーバード大、10人の入学許可撤回 FBで差別的発言

米国きっての名門大学、ハーバード大が交流サイト「フェイスブック」でのやりとりを理由に、今秋入学予定だった生徒少なくとも10人の入学許可を取り消した。同大の学生新聞ハーバード・クリムゾンが報じた。サイト上で性的な内容を含む画像をやりとりしたり、人種差別的な発言をしたりしていたという。

同紙によると、同大への入学が決まった生徒らがフェイスブック上でメンバーを限定したグループを結成。100人ほどが参加し、性的な画像のやりとりのほか、ナチス・ドイツによる第2次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)や人種をめぐり不適切な発言をしていたという。

同紙によると、同大学生課は「内定者の一部が不快なメッセージをやりとりしていたと知り、失望している」との電子メールを入学内定者に送った。大学側は同紙の取材に対し、「個別の入学許可についてコメントしない」としている。

本稿のために、一橋大学の関係者に多数の証言をいただいた。広報課、反対派の各位、そしてKODAIRA祭の実行委員会の複数の方々から、学園祭直前ながらお話を伺えたことを感謝したい。

なお、ここまで講演会の担当者にはメールで質問を投げているが、おそらく学園祭準備の多忙なのだろう。ご返信はまだいただいていない。もし返信があれば追ってご紹介したい。

一橋大学のKODAIRA祭の華やかな成功をお祈りします。

あわせて読みたい

「百田尚樹」の記事一覧へ

トピックス

  1. 一覧を見る

ランキング

  1. 1

    BLOGOSサービス終了のお知らせ

    BLOGOS編集部

    03月31日 16:00

  2. 2

    なぜ日本からは韓国の姿が理解しにくいのか 識者が語る日韓関係の行方

    島村優

    03月31日 15:41

  3. 3

    「いまの正義」だけが語られるネット社会とウェブ言論の未来

    御田寺圭

    03月31日 10:09

  4. 4

    カーオーディオの文化史 〜ドライブミュージックを支えた、技術の結晶たち〜

    速水健朗

    03月30日 16:30

  5. 5

    BLOGOS執筆を通じて垣間見たリーマンショック後10年の企業経営

    大関暁夫

    03月31日 08:27

ログイン

ログインするアカウントをお選びください。
以下のいずれかのアカウントでBLOGOSにログインすることができます。

コメントを書き込むには FacebookID、TwitterID のいずれかで認証を行う必要があります。

※livedoorIDでログインした場合、ご利用できるのはフォロー機能、マイページ機能、支持するボタンのみとなります。