- 2017年06月05日 10:02
第385回(2017年6月5日)
2/23.アビリーンのパラドックス
オリンピック開催に異を唱える者、共謀罪を導入する法案はテロ対策と関係ないことを訴える者、政権の姿勢に異を唱える者。
こうした人たちやその意見を遠巻きにして封じ込める「空気」があります。気持ちの悪い不健全さを感じます。多数意見と思い込んでいる多数意見は本当に多数意見でしょうか。
1996年、米国の経営学者ジェリー・ハーヴェイが「アビリーンのパラドックスと経営に関する省察」という本を出版しました。「アビリーン」とは本の中の挿話に登場する土地の名前です。要旨は次のとおりです。
ある夏の日、米国テキサス州のある町である家族が団欒をしていました。家族の1人が遠くのアビリーンに旅行することを提案します。
家族の誰もがアビリーンへの旅行を望んでいなかったにもかかわらず、「きっと他の家族は旅行を望んでいる」と誰もが思い込み、誰もその提案に反対しませんでした。
道中は暑く、埃っぽく、とても不快。本当は誰もアビリーンに旅行したくなかったという事実を家族が認識したのは、旅行から帰った後でした。
以上のような挿話です。「アビリーンのパラドックス」は「集団思考」のひとつのパターンであり、社会心理学が扱う現象として説明されています。
現在の日本が向かおうとしている目的地。きっと多くの人がそこに行くことに同意しているんだろうと勝手に推測し、誰も何も言わないという状況のように思えてなりません。
社会全体のそういうリスクに警鐘を鳴らし、歯止めをかけ、バランスを維持する役割のマスコミ、ジャーナリズム自らが「アビリーンのパラドックス」を扇動していることは悲劇的です。
野党が最大の歯止め役であることは言うまでもありません。しかし、「みんな、本当にアビリーンに行きたいのかな。アビリーンは快適な場所ではないよ」と警鐘を鳴らしても、マスコミ、ジャーナリズムがそれを無視していては、その効果は減殺されます。
社会や歴史の悲劇は、対立による争いから発生するばかりでなく、同調による沈黙からも発生します。過度の同調は対立よりも悲劇的です。
集団内の意見表明を自粛し、自由な議論が行われない状況下、何の根拠もなく多数意見を忖度(そんたく)し、集団の意思決定が「集団思考」によって行われ、悲劇に陥ります。
「アビリーンのパラドックス」は言わば「事なかれ主義」。集団が、その構成員の実際の選好や嗜好とは異なる決定をしてしまう人間及び人間社会の欠陥を指摘しています。
冒頭で紹介した米国心理学者ジャニスが1982年に出版した「集団思考」(副題は「政治的決定と失敗の心理学的研究」)という著作の中(175頁)で、集団が欠陥のある決定をする兆候として、以下の7点をあげています。
第1に代替案を充分に精査しない、第2に目標を充分に精査しない、第3に採用しようとしている選択肢の危険性を検討しない、第4に一度否定された代替案の再検討をしない、第5に情報を十分に集めない、第6に手許にある情報の取捨選択に偏向がある、第6に非常事態に対応する計画を策定しない。
上記7点を噛みしめてみると、日本の現状が懸念されます。緊張が高まる安全保障政策のみならず、産業政策でも、金融政策でも、欠陥のある決定をしてしまう危険性があることを感じざるを得ません。
「そんなことはない。杞憂ではないか」という意見もあろうかと思います。しかし、「空気」とは、気づかないからこそ「空気」です。
気づかないからこそ「空気」であるその「空気」を認識するためにはどうしたらよいのでしょうか。違う「空気」を吸ってみると、気づかない「空気」の匂いや雰囲気を感じます。つまり、自分と異なる意見を持っている人や集団と議論や交流をすることでしょう。
政府であれ、企業であれ、欠陥のある意思決定をしないために、「集団思考」「沈黙の螺旋」「アビリーンのパラドックス」等の概念を理解し、自問自答してみることが有益です。
6月2日の中日新聞(東京新聞)に掲載された元CIA諜報員エドワード・スノーデンのインタビュー記事。興味深く読みました。
スノーデンはNSA(米国家安全保障局)による大規模な個人情報監視を告発し、ロシアに亡命中。彼は、NSAが極秘情報監視システム(エックスキースコア)を日本側に供与していたことを暴露。
日本政府は、国民のメールや通話等の大量監視を行える状態にあることを指摘し、「共謀罪」捜査のための情報活動が行われるようになると、個人情報の監視が行われるようになると警鐘を鳴らしています。
そして、「共謀罪」に関して同趣旨の懸念を表明した国連特別報者ジョセフ・カナタチ氏(マルタ大教授)の意見に同意すると述べています。
国会は今、「沈黙の螺旋」を誘発するような法律を制定しようとしています。息苦しい。法律の功罪は運用者次第の面もありますが、今の政権の姿勢では、やはり懸念の方が圧倒的に大きいと言わざるを得ないでしょう。
(了)


