- 2017年04月25日 19:20
築地移転問題が改めて示した「ゼロリスク」の呪縛 - 中西準子 (産業技術総合研究所名誉フェロー)
2/2しかし、10年の国勢調査では8万6000人が居住していた1119平方キロメートルの避難指示区域の除染と帰還は遅れに遅れ、帰還困難区域を除く大半の地域で、避難指示が解除されたのは、事故後6年経過した今年の3月である。しかも、帰還人口は2割に届かないと推定できる。除染の遅れ、避難指示解除の遅れが帰還者を減らし、復興を難しくしてしまっている。その原因は、ゼロリスクの呪縛である。
帰還した場合問題になるのは、外部被ばく(体外からの放射線による被ばく)であるが、国は、除染によって、年間追加線量が20ミリシーベルト以下で、長期的には1ミリシーベルトをめざすとした。しかし、この線量になっても、避難指示の解除はなかった。また、なぜ年間20ミリシーベルトが選ばれたのか、この場合のリスクはどの程度かについての説明もなく、唯一の説明は、ICRP(国際放射線防護委員会)やIAEA(国際原子力機関)などの提案した値であるということだった。
年間1ミリシーベルトは食品の安全基準設定にも用いられ、日本社会で「ゼロリスク」と受け止められていたこともあって、住民は自分達の帰還時の目標追加線量が年間1ミリシーベルト以下であるべきと強く主張した。そして、年間1ミリシーベルト以下が達成できないので、避難指示解除ができないという状態が続いた。
福島県では、福島県立医科大学教員や各地からの応援医師などによる放射線健康影響についての説明会が、信じられないほど多く開かれている。その努力には、本当に頭が下がる。ただ、やや線量の高い地区に帰還した場合の健康リスクはどういうものかの説明はなかったように思う。
そもそも、国が目標の線量レベルの意味を説明しなかったのは、リスクがあることを言いたくなかったからで、現地の先生方も、「放射線被ばくに関連する固形がん(おそらくは甲状腺がん以外)の発生率が識別可能なレベルで放射線に関連して上昇することはないと推定」(UNSCEAR2016の報告)という説明が精一杯だったと思う。
私は、13年9月に開かれた日本学術会議のシンポジウムで、避難指示区域の住民のうち、できるだけ多くの方が帰還できることを最優先事項として、年間5ミリシーベルト以下の地区なら、避難指示を解除すべしという意見を出した。それは、帰還できる時期や人口、現在では4兆円を計上している除染費用など、他のリスクとの比較をした上での結論であったが、同時に、年間5ミリシーベルト程度の地区に永住した場合の累積放射線量によるリスクを受容してもらうという意味が含まれていた。
年間5ミリシーベルトは、広島・長崎の研究から、これが原因でがんが増えたと証明できない程度のレベルである。多くの人に早く帰還してもらうには、一定程度の放射線リスクを受容してもらうということがどうしても必要だ。
しかし、国も含めてすべての関係者が、そのことを言わない。私も、学会でそういう発言をしているが、住民の前で言っているわけではない。私の発言が混乱を引き起こすだけのような気がして結局は逃げてしまい、ゼロリスクの呪縛から抜け出ることができなかった。そのことが、大勢の人が帰還できないという現実を作ってしまった。
ここに挙げた三つの例は、大きな関心を呼んだ環境、食品問題の例であるが、いずれも、「リスクはゼロ」であるべきという考えが、問題をこじらせ、多額な費用を発生させた。
そもそも、我々の生活でゼロリスクというものはない。道を歩いてもリスクはあり、通常使う電気も、それが作られ、運ばれてくるまでには、相当な環境リスクを発生させている。私たちは、こういうリスクをある程度覚悟しながら、その便益(ベネフィット)を使って生きている。
環境問題も同じはずだ。バランスをとる難しさは、外国でも同じはずなのに、BSEが荒れ狂った欧州でも、若齢牛も含む全頭検査は行われなかった。また、福島での除染を見た外国人研究者が、半分呆れかえり、「日本はお金があるから」と言って帰っていくのを見ていると、どうして欧米とこうも違うのかと考えてしまう。
私の見る限り、欧州と日本での一般国民の環境・安全問題に対する考え方はあまり違わない。しかし、明らかに、指導層の考え方が違う。日本の指導層の考え方が、環境問題に対して原理主義的である。公害問題の記憶と意識から抜け出ていないように見える。
公害の時代にはゼロリスクは有効な指針だった。しかし、今は違う。わが国の環境行政を支配している法律は、すべて、公害まっただ中の時にできたものである。これを見直す必要もあるのかもしれない。そうしなければ、意識も変わらないのではないのだろうか。ゼロリスク信仰が、環境問題をこじらせ、異常にお金のかかる事業を生み出している。福島で見る如く、ゼロリスク信仰は福島の復興を妨げている。もう一度、国を挙げてこの問題を考える必要がある。(本稿は執筆者個人の見解であり、所属する組織の見解ではない)
イラスト:RINA YOSHIOKA
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■特集「築地移転問題にみる日本の病巣」
・「ゼロリスク」の呪縛から逃れられない日本
・置き去りにされた「環境基準」の本当の意味
・再び政局に利用された築地 経済的合理性なき再整備案
・「築地市場はもう限界」 〝宙ぶらりん〟にされる仲卸業者の悲鳴
・〝玉突き事故〟の「環2問題」 東京五輪にも広がる悪影響
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