- 2011年11月09日 00:15
完璧な小説「モレルの発明」
リンク先を見る いまなら分かる、ボルヘスが「完璧な小説」と絶賛した理由が。
なぜなら、読者がこれを読み進める行為を経て、初めて完成するという驚くべき小説なのだから。名前を持たない《私》の一人称の、二重の語り/騙りによって仕掛けられた、SF冒険小説として読むと、ただの面白いお話になるのだが……あらすじはこうなる。
絶海の孤島に辿り着いた《私》は、無人島のはずのこの島で、一団の奇妙な男女に出会う。《私》はフォスティーヌと呼ばれる若い女に魅かれるが、彼女は《私》に不思議な無関心を示し、《私》を完全に無視する。やがて《私》は彼らのリーダー、モレルの発明した機械の秘密を……どうやら、彼ら来訪者たちに、《私》の姿は見えていないようだ。まるで《私》が幽霊であるかのように、来訪者たちは気づかない。これは罠なのか、油断していて捕えるつもりなのか、そう疑う語り手。
この秘密そのものは、早い段階でピンとくるが、問題はその後だ。秘密に気づいた《私》がとった行動が、非常に示唆的なのだ。それは、「わたしは、リアルに意識を這わせて生きている」欺瞞を暴く。わたしが現実だと思っている表象へのリアクションこそが、「わたしが生きる」ことを気づかせる。
「パーティを続ける来訪者と、それを見つめる《私》との関係は、」を見つめる《私》と、それを読み進めるわたしと鏡像関係にある。つまり、ちょうどページが鏡のように、以下の等式の間に立っている。
来訪者 : 《私》 = 《私》 : 読み手
この関係から、わたしが抱いている他者性に一撃を食わせる。《私》が見るのをやめれば、『彼ら』は不在となるし、読み手であるわたしが読むをやめれば、《私》は不在となる。これは、他者を他者たらしめているのは、ほかならぬ自分自身であるという事実を突きつけてくる。
解説によると、「モレル」の発明は、「モロー」博士のオマージュなのだそうだ。人を人たらしめている根拠に一撃を食わせたのは、ウェルズの「モロー博士の島」だ。絶海の孤島で続けられる恐ろしい実験は、「人を人扱いする理由は、他ならぬ自分がそう認めているからにすぎない」という事実を突きつける。そして、自分が「人」として見えなくなったとき、文明や都市はモロー博士の島と化す。
「モレルの発明」は、他者を他者たらしめるのは、自分自身であることを指摘する。そして、「モロー博士の実験」は、人を人たらしめるのは、自分自身であることを指摘するのだ。
本当の他者というものは存在するのだろうか。語り手であれ読み手であれ、主体と関わりあって、初めて他者が「人」として立ち上がってくるのではないか。実存は本質に先行するサルトル云々を持ち出さなくてもよい。「プリティリズム・オーロラドリーム」や「輪るピングドラム」を観ればいい。あそこに出てくるモブキャラ(mob character)は、完璧にデフォルメされている。群集や背景として抽象化されているくせに、動いたり話しかけたりしてくるのが新鮮だ。しかし、登場人物に関わらない限り、他者にすらなれない。
「致死量ドーリス」というコミックがある。美しい女がいて、知的で痴的で、狂気と貞淑と奔放をそれぞれ見せる。対する男は、自分が望んだ性質を彼女に投影して愛する。男に応じて性格を使い分けるのではなく、都合のいい"女"を(彼らが)彼女から汲み取るのだ。「だれも本当の彼女を知らない」って話なのだが、そこが要点ではない。
むしろわたしたちを確かにしてくれるのは、愛なんだということ。現実を微分しても、そこには「奔放な女」や「サイケな女」が断片的に現れるだけだ。モブキャラが「板」っぽく見えるのは、微分された一つのキャラクターだけが割り当てられているから。
しかし、そこに興味が好意が愛情が湧いて出るとき、拡張現実は現実になる。3DSになってもラブプラスは幻影かもしれないが、寧々さんへ愛は本物だ。オクタビオ・パスは、「愛は特権的な認識」と喝破する。「美しい水死人」の解説に、こうある。
肉体というものは想像上のものでしかなく、われわれはその幻影の圧政下に生きているのである。そうした中で、愛は特権的な認識であり、愛を通してわれわれは世界の現実だけでなく、自分自身の現実をも全体的、かつ明晰に把握することができるのである。つまるところわれわれは影を追い求めているにすぎないのだが、そのわれわれ自身もまたじつは影でしかないのである。わたしも含め、影でしかない存在が現実と関わっても、残すものは幻でしかない。それでも、関わろうとする情熱を支えているのは愛なのだ。表紙のフォスティーヌと、裏表紙の《私》の奇妙な関係が分かるとき、あっと驚くかもしれない(そしてきっと、二度じっと見るはずだ、表紙と裏表紙を)。だが、それでも関わろうとする《私》は、たしかに現実を認識しているのだ―――わたしという読者が見ている存在とは独立にね。
そして、本を閉じても、この思いはいつまでもわたしから離れない。わたしが読んでいなくても、《私》は続く。《私》が「モレルの発明」を知ってしまったように、わたしが「モレルの発明」を読んでしまったのだから。



