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コンゴ民主共和国における長距離徒歩交易 木村大治 / 人類学・アフリカ地域研究

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シリーズ「等身大のアフリカ/最前線のアフリカ」では、マスメディアが伝えてこなかったアフリカ、とくに等身大の日常生活や最前線の現地情報を気鋭の研究者、 熟練のフィールドワーカーがお伝えします。今月は「最前線のアフリカ」です。

中部アフリカの大国、コンゴ民主共和国(旧ザイール共和国、以下「コンゴ」と略称)は現在、紛争・難民・暴力といったキーワードで語られることが多い。私は約30年前からこの国で調査を続けているが、この記事では私自身の経験をもとに、そういったイメージに覆い隠されてほとんど知られていない、コンゴの人々の姿について紹介してみたい。

私の調査の拠点は、コンゴ中部のワンバ地域である(図1)。ワンバでは、過去40年以上にわたって類人猿ボノボの研究がおこなわれている。1973年に、加納隆至先生がこの地で調査を始め、今日に至るまで、後に述べる内戦の時期を除いて、延々と研究が続けられてきたのである。私はその基地をベースとして人類学的な調査をするために、1986年にはじめてこの地を踏んだ。調査の詳しい内容については、拙著『共在感覚』(2003)を参照していただくとして、ここで記すのは、30年を経ての人々の生活の変容と、それを引き起こした社会経済的変化についてである。

図1. コンゴ民主共和国

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私は1980年代には、86年から89年にかけてワンバ地域に滞在した。コンゴ盆地を覆う熱帯雨林の中にある村のまわりには、森を切り開いて作られた焼畑が広がっている(写真1)。当時はそこで、主食作物であるキャッサバと、換金作物であるコーヒーが主に作られていた。いくつかのプランテーション会社が活動しており、そこにはダビッド氏とかドミンゴス氏といった名前の白人たちが駐在していた。

彼らはトラックで村人たちからコーヒー豆を買い集め、コンゴ川支流のルオ川に面する港町ベフォリに運んでいった。コーヒー豆はそこからさらに、マスワと呼ばれる鋼鉄船でキンシャサへと運ばれる。そして同じ流通ルートを反対方向に、さまざまな商品がこの地域へ入ってきていた。女性用の服地、鍋、食器、石鹸、塩、学用品。人々は、コーヒーを売って得た現金でこれらの生活必需品を購入していたのである。

写真1. 熱帯雨林

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ところが90年代初頭から、国内情勢は悪化していった。コンゴは鉱物資源に恵まれた大国だが、1960年の独立直後に、その鉱物資源の争奪によってコンゴ動乱(Congo Crisis)が起こった。その騒乱が収まった1965年から長く続いてきたモブツ大統領の独裁体制だったが、複数政党制へ移行した直後の1991年に、首都キンシャサ市内で給料未払いへの不満を持った兵士たちによって暴動が発生。

1997年、東部から進撃してきた解放勢力同盟(ADFL)のローラン・カビラ議長がモブツ体制を打ち倒し、大統領就任、国名をコンゴ民主共和国に変更した。内戦は近隣国の派兵により国際紛争へ発展する(コンゴ戦争 Congo War)。2001年、ローラン・カビラ大統領が暗殺され、息子のジョゼフ・カビラ氏が大統領に就任。2002年の「プレトリア包括和平合意」成立後、2006年にやっと大統領選挙がおこなわれ、カビラ氏が当選した。1990年代以降の戦闘に関連して死亡した人は500万人とも言われている。

私は1989年に帰国し、1990年に博士号を取得した。すぐにフィールドに戻り、続きの調査をしたかったのだが、紛争のためにそれはかなわなかった。やむなくカメルーンに転進し、そこで狩猟採集民バカ・ピグミーの研究をすることになった。(他のコンゴ研究者も同様で、自嘲気味に自分たちを「調査難民」と呼んだりもする。) 以来16年間、私はコンゴに足を踏み入れることができなかったのである。

この間、ワンバの村人たちはどのような生活をしていたのか。2005年末に調査を再開してから尋ねてみると、やはり大変だったようだ。幸運にも、この地域で軍隊同士の衝突はなかったが、近隣諸国から来た兵士たちが駐留し、村人たちに略奪行為や暴行をおこなったこともあるという。一部の人たちはそれを避けて、道路沿いの本村から森の中へと住居を移し、そこに畑を作って暮らしていた。

しかし、そのような直接的なダメージもさることながら、ボディブローのように効いてきたのが、地域の流通網の寸断である。プランテーション会社を運営する白人たちは、戦乱を避けてみな撤退してしまった。トラックも船も動かない。道路は補修されないので、雨水が溝を刻み、人が歩く幅だけ残して森に還っていく。丸太を渡しただけの橋は崩落する。その結果、いくら換金作物のコーヒーを生産しても、売るすべがなくなってしまったのである。私の友人のリンゴモ氏は、この期間に10トンものコーヒーを買い集め、売って儲けることを試みたが、そのコーヒーは倉庫の中でみな腐ってしまったという。さらに80年代後半からのコーヒー豆の国際価格の下落も、この傾向に拍車をかけた。

2005年末、16年ぶりにフィールドに帰ったときの印象は、「物がない」ということだった。とりあえず畑でキャッサバを作り、森や川で動物や魚を取れば食べていくことはできる。そういった生活の姿は以前とほとんど変わってなかった。しかし、県庁所在地の町ジョルに行っても、昔は買えたはずのさまざまな物品は見当たらず、市場はがらんとしていた。私は折に触れて、人たちの持っている物品を指して「これはどこから持ってきたんだ?」と尋ねてみた。すると返ってくる答えは、おしなべて「キサンガニから」、あるいは「トポケ(の土地)から」というものだった。(トポケは、キサンガニの西方に居住する民族集団である。)

ワンバからコンゴ東部の中心都市であるキサンガニまでは直線距離で約280km (図1)、もちろんすべて直線で歩けるわけはないから、実際の道のりはもっとかかる。彼らがよく物品を売り買いするというヤフィラの市場は、その西のロマミ川沿いに位置し、もう少しワンバの近くである。

1980年代にも、キサンガニに行ったという話を聞くことは珍しくなく、当時はそこまで車で行き来することも可能だった。しかしその行き来は、キサンガニで仕事を探し生活するため、といったものだった。ところが聞いてみると、紛争後のワンバの人たちは、物を売り買いするためだけに、徒歩でこの距離を往復するというのである。行くのにどのぐらいかかるのかと聞いてみると、“Mposo moko, kaka kotambola”「一週間、ずっと歩き続ける」などといった答えが返ってくる。途中寝るのはどうするのかというと「ただ道で寝る」、雨が降ったらどうするかというと「ただ濡れる」のだという。こういった過酷な「長距離徒歩交易」は特別なことではなく、村の若い男たちなら普通にやっていることのようである。

私は驚き、また興味を引かれて、この交易についていろいろと聞いてみた。昔からこんなことをやっていたのではなく、これは紛争の後に始まったことだという答えが返ってくる。彼らは30kgぐらいの荷物を背負子で担ぎ運んでいくが(写真2)、その内容は、干した肉、魚、芋虫、bika(ウリ科の植物の種で、すり潰して調味料にする)、キクラゲ、蒸留酒などが主なものである。

重量あたりの単価が高いものが選ばれているが、考えてみれば、背負って運んでいくのだから当然のことだろう。ときに、ブタやヤギ、ニワトリが生きたままで連れていかれることもある。森の中の道すがら、そのへんの草などを食べさせながら引いて行く。そしてそれらの物品を市場で売って現金を手に入れ、衣服やら鍋やら石鹸やら、以前はトラックによって運ばれてきていた生活必需品を買って、また森の中の道を取って返すのである。村の中に建てた私の家から見ていると、背負子を持った人々が、日に何人も東の方に向かって歩き過ぎるのが見える。

写真2. 荷物を背負って歩く

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私は、この森を突っ切っての交易に、一度付いて歩いてみたいと夢想していた。しかし考えてみると、私の体力でまともに一緒に歩き通せるとはとても思えない。足手まといになるだけだろう。途中で怪我をしたり病気になっても大変だ。そんなわけで、彼方のキサンガニの市場に、思いを馳せるだけだったのである。

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