- 2017年03月22日 14:55
保守すべきものとしてのリベラル――シノドス国際社会動向研究所が目指すこと / 橋本努×吉田徹×高史明
2/2このように「いまそこにあるリベラル」を具体的に示しつつ、現実に享受している有形無形の豊かさや安定はリベラルな価値ゆえである、という文脈や事例を丁寧に集めていくことで、「保守すべきものとしてのリベラル」の姿は浮かび上がってくるのではないでしょうか。
そもそも、終戦の日に靖国神社でコスプレをしたり、これまでヘイトスピーチが許容されてきたのも(あるいは幼稚園で教育勅語を唱えさせるのも!)、リベラルな価値の大骨のひとつである表現や思想の自由が社会で受容されているからです。
「戦う民主主義」、つまり「非民主的な価値を許さない民主主義」を掲げるドイツであれば、こうした行為は刑事罰の対象となります。その程度に異論を許容できているのは、日本でもそれだけリベラルな構成要素によって社会が作り上げられてきたからです。人権を謳うフランス革命がなければ保守主義が生まれ得なかったのと同じように、権威主義の生存が許されるのは、リベラルな価値が許容されているからです。
他方で、保守が多義的であると同様に、リベラルの意味合いも、戦後の「オールドリベラル」からその後の「新左翼」、現代のいわゆる「リベラル」まで、かなりの触れ幅で変化してきました。保守がいまや権威主義化しているなかで、リベラルの定義もまた変化しても構わないでしょう。リベラルの持つ意味合いを換骨奪胎することが大切です。
橋本 そのリベラルの意味あるいは理念をどう練り上げるのか、これが思想的にも問われている。
高 表現の自由の規制や、男性らしさや女性らしさの復権を、誰も心の底からは望んでいないとは、私は思いません。権威主義的なイデオロギーを持っている人びとにとって、そうした問題は重要なことだからです。そのこと自体は理解する必要があります。
ただ、そういうイデオロギーの持ち主が沢山いるからといって、だからそれにしたがって個人の自由を手放そう、というわけにはいかないですよね。そうしたときに、本来、権威主義的でない人々までポピュリズムの側に追いやって、自ら自分の首を絞めにいかせては大勢が不幸になる。
あるいは、トランプであれば、自国中心主義的な政策が支持の獲得に貢献しました。でも、環境規制の撤廃のような政策は、一時的には自国の経済を浮揚させるかもしれないので多数の支持を勝ち取るのに役立つけれども、結局は共貧状態の社会的ジレンマに陥ることになる。
ですから、できるだけ大勢の人々の意見をすくい上げつつ、かといってそれにおもねるわけではない、個人の自由という基本的価値を中心にすえた政治的潮流というのが求められていると思います。「人々が自立し、しかし孤立しない社会」、つまり家族や国家といった伝統的な存在や守旧的な価値観に自由を奪われることがなく、しかし不本意に他者から切り離されて孤立することがないような社会を構想する必要があります。
いま「市民派リベラル」はどこにいるのか?
橋本 そもそも「リベラル」という言葉は「自由主義者」、あるいは「自由を求める革新主義者」を意味していますけれども、そうした「自由な人にふさわしい価値」というのが本義ですね。では自由な人にふさわしい価値とはなにかといえば、いまの日本の文脈では、たとえば平和憲法の擁護、基地反対、脱原発、福祉国家の擁護、などの理念となって現れている。
他方で、リベラルな価値を規定する「自由主義(リベラリズム)」の思想伝統に立ち返ってみると、価値の中身には広がりがあります。私の理解では、自由主義には三つの伝統があります。「寛容」と「啓蒙」と「解放」の伝統です。これら3つの伝統が、自由主義(リベラリズム)の思想の幅をつくってきた。それぞれの伝統にも多様な要素があるので、自由主義をどう理解するのかという問題は、つねに開かれているわけです。
他方で「市民」概念ですが、この言葉も多義的で、反伝統支配、反権威、自律、下からの自治、政治参加、などの価値と結びついてきた。ここでは詳しく述べることができませんが、ひとつ指摘したいのは1980以降、「市民(派)」の思想はあまり発展せず、他方で自由主義(リベラリズム)の思想は多様に展開されてきたという経緯です。そういうわけで現在、「市民派リベラル」がどのような思想理念なのか、それを描くことは大変チャレンジングな思想的課題だといえるでしょう。
私たちはこうした問題に応じる一方で、「新しいリベラル」というものを現実の様々な問題に直面している人々のなかに見いだしていきたい、と考えます。理論と調査の両面から新しい政治の担い手像を探っていきたい。
吉田 石油危機以降に日本では、「日本型経営」を礼賛するような親市場的な保守と、市民社会的な理念に閉じこもって個人の自律を唱える革新の対立が不均衡に展開していきました。ただ、私見では、その対立は90年代以降の「市場リベラル」「個人リベラル」を統合したネオ・リベラリズムに吸収されていくことになった。少なくとも、ミレニアル以降のリベラリズムはこうした背景を踏まえたものでなければならないでしょう。
具体的にはといえば、差し当っては、現在の社会と再分配の構造は持続可能でも公平でもないというリテラシーを持ちつつ、現実に享受している有形無形の豊かさや安定は手放したくないと考え、その矛盾を解決することのできる政策を、能動的な政治参加を通じた行動によって実現していく人びと、と定義してみたいと思います。
これは高さんの指摘を待ちますが、日本の高齢化に伴って、リベラル層は年代的にやはり上に固まっていっている。それに加えて潜在的にはリベラルな供給源になる中間層がいまでは質的には弱体化して、量的には衰退の局面にあります。
そうした諸々の条件を勘案したとき、リベラルな価値の供給源は、かつてのように社会階層にではなく、生活スタイルや政治リテラシーの方向性を準拠としたクラスタをつなぎあわせることによってでしか再興できないのではないか、というのが今のところの見立てです。
橋本 90年代後半からいわゆるネオ・リベラリズムが社会的領域において浸透していく際に、公共サービスの民間委託をめぐって、市民派はふたつに割れたように思います。ひとつは、ネオ・リベラルな体制の下で市民組織の活性化を歓迎するタイプ、もうひとつは公共領域における貨幣原理の浸透を懐疑する否定派でした。
この時点でリベラルは割れています。すると今日、リベラルをどう再規定するか、またその担い手を見つけるかは難しい課題で、ご指摘のようにクラスタをつなぐという発想が必要になってきますね。問題はクラスタのつなぎ方でしょうか。
高 総体として日本人がリベラルな思想を失っているわけではないと思います。一部では極端な――「ネット右翼」など――の動きはありますし、在日韓国・朝鮮人に対する差別が以前より公然となされるようになったという変化もありますが、他方では以前よりリベラルな考え方が受け入れられるようになった側面もあります。
安倍政権の高い支持率は、彼の保守反動的な思想が受け入れられるように日本人が変化したことによるものではなく、経済政策など、様々な政策のパッケージを提示するガバナンスの効いた競合政党がないことによるものだと思います。
そういった意味では先にお話しが出たように、「リベラルの受け皿がない」ことこそが問題だと思っています。
政治学者の竹中佳彦先生も、調査データにもとづき、日本の有権者に起こっていることは右傾化ではなく脱イデオロギー化であり、自民党に代わる政党を見出せない人々が棄権していることが自民党の相対的得票率を高め、2016年の参院選の勝利に結びついたと分析しています(塚田穂高(編)『徹底検証 日本の右傾化』)
橋本 日本人がリベラルではなくなったのかというと、確かにそうでもないと思います。私は拙著『経済倫理=あなたは、なに主義?』で、4つの質問から、イデオロギーの16類型を析出しているのですが、学生たちに質問すると、もっとも支持されるのはやはり「リベラリズム」なんですね。
しかしその次に支持されるのは、じつは名前がないイデオロギーなのです。私は「近代卓越主義」と命名しましたが、一言でいえば「プライド高すぎ主義」となるでしょうか。親に愛情深く育てられ、承認願望が強く、失敗を恐れて挑戦しないタイプです。この他にも新自由主義や新保守主義は支持者が多いです。「市民的コミュニタリアン」は全体の2%くらい。市民派と呼ばれるようなタイプは、学生の中にはあまりいません。
すると新しい市民派リベラルというのは、これら16類型の中で、おそらくいくつかの意識の組み合わせになる と思うのですね。リベラリズム、耽美的破壊主義、市民的コミュニタリアニズム、等々。そして近代卓越主義もまたそのひとつのタイプでしょう。これは21世紀の新しいイデオロギーではないかと。いずれにせよ、新しいリベラルをどのように析出するのか。少し視点を変えていえば、新しい中間層をどのように可視化するのかが問題となります。
新しい中間層を可視化する
橋本 新しい中間層を可視化するという場合に、ひとつ参考になるのは、韓国の社会学者ハン・サンジンの「中民理論」です。
1980年代に、日本では村上泰亮が『新中間大衆の時代』を書いて、マス・カルチャーを全面的に享受するような消費者の台頭を描きました。ところが同時代に韓国ではハン・サンジンが、近代の自己反省とともに台頭してきた新しい市民層を社会学的に解明し、韓国における二大政党制の意識分割のあり方を模索しているのですね。
彼はその後、金大中大統領のブレインとなり、最近では第三の政党「国民の党」の設立準備委員長を務めたりしている。ハン・サンジンの理論はそのままのかたちでは日本に応用できませんが、日本でも社会理論と社会調査を組み合わせて、類似の視角で新たな分析が可能ではないかと思っています。社会調査研究が政治に与える影響について、高さんどうお考えでしょうか?
高 調査研究は政治を考える上で、非常に重要だと考えられます。そうした研究は、人びとが何となく思っていることが事実なのかどうかを検証したり、あるいは人びとが自分でも気づいていないことを明らかにしたりできるからです。
私の専門 である在日コリアンに対する偏見・差別をめぐっては、「差別的なのは貧しい連中だ」といった言説がしばしば飛び交います。
しかし先行研究からすると、貧しい人ほど差別的かというと必ずしもそうではありません。むしろ、豊かな人は豊かな人ゆえの、差別を正当化するようなイデオロギーを持っていることがあります。私が昨年行った調査でも――まだ論文としては未発表ですが――、家庭収入が多い方が、在日コリアンへの偏見が強いという結果が得られています。
こうした、通俗的な言説や直感に反する知見というのは、実際にデータを得て分析してみなければ分からないわけです。ですから、データの裏づけなしに社会に対して働きかけようとすると、まったく意味のないことや逆効果のことをしてしまったり、本来働きかけるべき相手とは違う人々に働きかけて徒労に終わるといったことになりかねない。
また、社会心理学では「実験」という方法も用いられますが、こうした手法は、「調査」よりも効果的に、出来事の因果関係を明らかにすることができます。これらの手法を用いて、誰が何を求めているのか、あるいはどう訴えれば彼らに届くのか、といった点を明らかにすることは、リベラルの受け皿を作るためには欠かせません。
吉田 おそらく社会構成の原理としてのリベラリズムは、変調の予兆があるとはいえ、これを変えるための摩擦係数は高いでしょう。そうだとすれば、このプラットフォームとしてのリベラルと、そのもとで個人や集団が実質的にどうリベラルであるのかを明らかにして、それを刷り合わせていくような作業が必要になってきます。それこそが広い意味での「政治」ということになります。
中民理論にもそうした実践のかたちはあるのでしょうか?
橋本 もともと中民というのは、1980年に韓国で起きた「光州事件」の担い手だとか、80年代の政治の季節に大学のキャンパスで生じた草の根的なさまざまな政治・文化運動だとか、そういったものが実態としてあるわけです。
他方で、意識調査から浮かび上がる一定の社会層というものが、こうした現実の運動と結びつけられたところに「中民」概念が位置づけられるのですね。最近では昨年末から生じたパク・クネ大統領退陣要求デモ(キャンドルライト運動)の担い手と、市民派リベラルの関係について、ハン・サンジンらの研究所では検討しているようです。
ハン・サンジン氏の面白いところは、かれはハーバマス主義者で、理論家であり社会哲学者なのですね。その理論的な成果を生かして、社会調査に結びつけている。日本ではこのような研究があまりないですね。ここに私たちが共同でやるべき理由があると思うわけです。
高 私は社会心理学者で、社会心理学者というのはデータを取って読み解くのは得意なのですが、しばしば狭い領域にこもってしまって、政治や社会についての理論に疎いものなんですね。私もその一人です。もちろんそれには、データに根差した理論こそが理論だという言い分はあるのですが、最近では政治学者や社会学者――計量も理論もやる人びと――とのつき合いが増えて、自分の不勉強をあちこちで思い知らされています。
既存の理論を利用した実証研究ができるのであれば、積極的に行っていきたいです。ある理論が検証され妥当だと示されれば、その理論を用いて論じられてきた様々なことについて、さらなる実証研究が可能になり、豊かな実りがあると考えられるからです。実りというのは、アカデミックな関心の面からも、よりよい政治的潮流を引き出すという関心の面からも、です。
また、政治や社会の理論というのは、多くの知識人が政治や社会を語る枠組みになっているわけですから、理論の妥当性を検証することは、それらの語られ方を再編することに繋がるという面でも有意義だと思います。
吉田 苅谷剛彦が日本の教育やアカデミズムでの「正解主義」を指摘しています。これは「現実」や「正解」はどこかにあるはずだとの知的態度のことを指します。ただ、「政治」が集合的に運命を切り開いていくことを意味するのだとしたら、実際にはこの「正解主義」ほど、反知性的で非政治的な態度もありません。
そうした意味でも、何のための実証研究か、それが政治に関わるものである限り、オープンな意味で「よりよい政治的潮流を引き出す」実践でなければならないということに賛成します。政治で誰を、何を応援するかというよりも、新しい価値や意見を示すことこそが、民主主義における科学者のファンクションのひとつだとも思います。
日本政治の課題とシノドス国際社会動向研究所
橋本 最後に、日本政治の課題とシノドス国際社会動向研究所の意義について話したいと思います。吉田さんはいまの日本政治が抱えている課題について、どのようにみていますか?
吉田 冒頭で指摘したように、戦後になって初めて全面化したリベラルな価値は、その担い手となった中間層が衰退していることで、変調を来たしているというのが現状認識です。その大きな潮流の中に日本も置かれています。
もっとも、リベラルな社会の構成要素は胡散霧消したわけではなく、70年間の風雪に耐えて、制度的原理と実践の規範として残っています。問題はその構成要素が、徐々に原理としての訴求力を失っていっている現状にあります。
そこで求められるのは、一方ではリベラルと呼ばれるものがなぜ、どのようにヘゲモニーを喪失していっているのかの原因の分析と、その結果として生まれている空白を何が埋めていっているのか、そこにリベラルな価値が復権する余地はあるのかどうか、あるとしたらそれはどのような意匠のもとにあり得るかの考察です。
この2つの領域を架橋するためには、理論的作業と実践的調査が欠かせません。そのためのツールを生み出していく場がシノドス国際社会動向研究所(通称『シノドス・ラボ』)となります。実際、政治家や政党関係者、社会活動家はアイディアとデータに飢えています。もちろん、現場の政治や社会に携わっているのだから、おおよその方向性や理念というのは彼ら/彼女らの誰しもが持ってはいます。
ただし、そこをバージョンアップさせていかないと、「生活が第一」やら「居場所と出番」やら、大体誰もが反対しないけれど、実際には選挙に負けないための何も言っていないメッセージへと矮小化されていってしまう。
そうではなく、あなた方が代表することのできる「人びと」は現実にはここにいるのだよ、と具体的に指し示してあげて、安心感を与えてあげることが大事です。つまりは、具体的で強固な因果関係とデータを抽出した上で、キャッチオールなスローガンを構想していくことが、結果として政治のイノヴェーションを生む、つまりは私たちの政治への希望にもつながっていくのではないでしょうか。
橋本 リベラルな社会の新たな構成要素を、社会意識や社会変動の観点から着実にさぐるということですね。
高 私も繰り返しになりますが、日本人が総体として右傾化しているかというと、そうではないと思います。ある面ではリベラルな方向への変化もあり、他の面では保守反動的な変化もあると思っています。ただ、では具体的にどの面でどう変化しているのかという実態は、調査、あるいは先行研究の精査を通じて、明らかにしておく必要があります。
また、総体としては極端な右傾化は生じていないにも関わらず、リベラルな受け皿を用意できないことで政権の右翼的傾斜を許すことになってしまっているのが、現在の日本政治の問題だと思います。
このままでは、気がついたら自分たちの重要な権利を放棄していた、ということになりかねない。そして人間というのは一度変化が起こるとそれに慣れてしまう傾向があるので、たとえ最初はそんなことを望んでいなかったとしても、保守反動的な政治・社会を所与のものとして受け入れてしまうかもしれない――そしてその中では、受け入れられない人が苦しむことになるわけです。
ではどういう受け皿を用意できるのか。ただ多数派を形成して多数決で自分たちの意思を通すためではなく、個人の尊厳といった基本的価値が擁護される社会にしていくためにはどうすればいいのか、というヴィジョンを、データにもとづき提示していければと思います。
橋本 リベラルが決して意識の上で衰退しているわけではないのに、政治的な回路を見失っているのでは、ということですね。
ではどのようにしてその回路を見出すのか。最近、私が興味深いと思うのは、トランプ大統領はエリート主義の権化たるヒラリーを破って大統領になったのに、現在、アメリカの民衆たちは、トランプ大統領を批判しはじめたということです。
もちろん、はじめからトランプ氏を支持していない人も多いわけですが、街頭デモやメディア発信でもって批判する人たちは、現在、エリートよりももっと優位な観点から政治を語っているようにみえます。そうした民衆による政治批判のなかに、私は保守でもエリート主義でもない、「新しい中間層」が可視化されていく可能性があると思います。
いずれにせよ、シノドス国際社会動向研究所(シノドス・ラボ)では、まず新しい中間層=リベラルの担い手を構成的に描き出す研究をはじめます。
吉田 具体的な社会・意識・心理調査を行って、それがどのような政治的(党派的ではない)実践につながるかを理論化することが中核になるだろうと想定しています。それを経済学、政治学、哲学、社会学といった分野を横断して、かつシノドスというネット、ジャーナリズム、アカデミズムを架橋するメディアネットワークでもってバックアップと発信していくというのは、形式としても試みとしても、かなり革新的な試みではないかと思っています。
まずは調査研究をデザインし、その結果をまとめ、それを発信し、関心を持ってくれる人からのフィードバックをもらうことから始めることになるでしょう。先ほどもいいましたが、リベラルであることの「正解」はありません。あるのは「作りあげていく作業」です。そのプロセスこそ、リベラル的価値を内在させているといってもいい。
橋本 「リベラル」という言葉を聞いて、いまいちピンとこない人も多いかもしれません。でも新たな意識調査でもって、「えっ、私もリベラルだったの!?」みたいな、驚きをもって受け止められるような仕方で、リベラルの再規定と自己反省化をすることができるとよいですね。ぜひみなさん、ご期待ください!
現在、クラウドファンディング「新しい政治を生み出すために、シノドス国際社会動向研究所をつくりたい!」(https://camp-fire.jp/projects/view/21892)に挑戦中です。プロジェクトにご共感いただけた方のご支援をお待ちしております!
画像を見る 吉田徹(よしだ・とおる)
ヨーロッパ比較政治
1975 年生まれ。慶應義塾大学法学部卒、東京大学総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。現在、北海道大学法学研究科教授、フランス国立社会科学高等研究院(EHESS)リサーチアソシエイト。この間、パリ政治学院講師、ニューヨーク大学客員研究員。専攻は比較政治、ヨーロッパ政治。著作に『ミッテラン 社会党の転換』(法政大学出版局)、『二大政党制批判論』(光文社新書)、『ポピュリズムを考える』(NHKブックス)、『感情の政治学』(講談社メチエ)、編著に『ヨーロッパ統合とフランス』(法律文化社)、『野党とは何か』(ミネルヴァ書房)、『「野党」論』(ちくま新書)共著に『政権交代と民主主義』(東京大学出版会)、『紛争と和解の政治学』(ナカニシヤ出版)、『グローバル化のなかの政治』(岩波書店)など。
画像を見る 橋本努(はしもと・つとむ)
社会哲学
1967年生まれ。横浜国立大学経済学部卒、東京大学総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。現在、北海道大学経済学研究科教授。この間、ニューヨーク大学客員研究員。専攻は経済思想、社会哲学。著作に『自由の論法』(創文社)、『社会科学の人間学』(勁草書房)、『帝国の条件』(弘文堂)、『自由に生きるとはどういうことか』(ちくま新書)、『経済倫理=あなたは、なに主義?』(講談社メチエ)、『自由の社会学』(NTT出版)、『ロスト近代』(弘文堂)、『学問の技法』(ちくま新書)、編著に『現代の経済思想』(勁草書房)、『日本マックス・ウェーバー論争』、『オーストリア学派の経済学』(日本評論社)、共著に『ナショナリズムとグローバリズム』(新曜社)、など。
画像を見る 高史明(たか・ふみあき)
社会心理学
1980年生まれ。東京大学文学部卒、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(心理学)。現在、東京大学大学院情報学環特任講師、神奈川大学非常勤講師。専門は社会心理学。著作に『レイシズムを解剖する 在日コリアンへの偏見とインターネット』(勁草書房)、『在日コリアンへのレイシズムとインターネット』(塚田穂高編『徹底検証日本の右傾化』、筑摩書房)など。



