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保守すべきものとしてのリベラル――シノドス国際社会動向研究所が目指すこと / 橋本努×吉田徹×高史明

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シノドスの新しい挑戦である「シノドス国際社会動向研究所」(シノドス・ラボ)はいったい何を目指そうしているのか? 立ち上げメンバーの橋本努、吉田徹、高史明が語り合った。(構成/芹沢一也)

台頭するポピュリズム、動揺するリベラル・デモクラシー

橋本 昨年、2016年にイギリスがEUを離脱し、今年になってアメリカでトランプ大統領が誕生しました。そしていまヨーロッパ諸国では、難民受け入れ反対運動などが盛り上がり、ポピュリズム政治への期待が高まっています。こうした動きはすべて、リベラル・デモクラシーへの脅威ではないか、そのような警戒感も高まっていますね。

吉田 象徴的なことに、英エコノミスト誌の調査部門EIUが毎年作成しているデモクラシー指標で、アメリカは2016年に「完全な民主主義」から「欠陥のある民主主義」に引き下げられました。これはトランプ大統領の誕生を受けてのことではありません。その前から政治不信の高まりを受けての判断でした。こうしたエリートや既成政党、ひいては代議制民主主義への不信が昨年は大きな現象となって表れましたが、それはこれからも続いていくでしょう。

とはいえ、こうした政治不信は現在のリベラル・デモクラシーが動揺していることの結果であって、ポピュリズムがリベラル・デモクラシーを危機にさらしているわけではありません。因果関係を間違えないことが大事です。

現在のポピュリズムを理解するには、おおまかにいって、長期、中期、短期にまたがる3つのフェイズを確認する必要があります。

概略的にはなりますが、まず長期的なフェイズから説明します。議会制民主主義は戦後になって初めて安定をみます。それは資本主義と民主主義が、ソーシャルな国家(社民主義的な国家)によって媒介され、社会の安定をもたらしたからです。背景には、資本主義を抑制的なものにせざるを得ない冷戦構造がありました。

ただ、ここでの民主主義は工業社会の民主主義です。それゆえ、70年代のオイルショックを経てサービス経済化が進むと、議会制民主主義を結果として支持していた製造業を中心とする中間層がやせ細っていきます。議会制民主主義が支持されたのは、政治的な反省の結果というよりは、それが一定度の代表性を受容し、社会の安定をもたらしていたからにすぎません。

サービス産業化はアメリカやイギリスに顕著ですが、ここでは高技能・高学歴のハイエンドと単純労働・移民に担われるローエンドに二極化します。このことによって、戦後に大量に生みだされた中間層は、ポスト工業時代が本格化するにつれて行き場を失い、没落の恐怖に襲われます。こうした「没落する中間層」が新たな政治的代表を求めて、ポピュリズム政治家を押し上げることになります。

次に中期的なフェイズとして指摘できるのは、社会民主主義勢力の変容です。90年代に冷戦が終わると、サービス産業化とグローバル化のさらなる進展によって、ポスト工業社会の中間層が台頭してきます。北欧社民やイギリスのニューレーバー(労働党)に象徴的ですが、それとともに、社民勢力は経済政策では、かつての福祉国家リベラルを離れて市場経済と自由貿易を受け入れます。同時に、社会・文化的次元では労働者という階級政治ではなく、生活者たる個人を重視するリベラルへと変質していきます。

社民はもともと歴史的には、労働者や労働組合の支持基盤に依存するものであって、最近のように個人の自己決定権を是とすることに、政治的なアイデンティティを求めるものではありませんでした。欧米の左派政党で90年代に起きたのは「左派」から「リベラル」への転回でした。こうした変質によって、かつてであれば左派政党を支持したであろう労働者層が、政治的代表の回路を失うことになりました。

このような社民勢力の変容を受けて、それまで家族を中核とした共同体的価値や家父長的な権威主義的価値を奉じていた保守政党の側も、基本的には個人の自己決定権を認めていく方向へと舵を切ります。その背景には、マイノリティの権利擁護やフェミニズムのように、70年代に、社会が大きく個人主義を認める質的な変化を経験したからです。

こうして保革によって取り残されたニッチ市場、つまり敗者としての中間層と取り残された労働者層をつなぎあわせてパッケージ化したのが、現在のポピュリズム勢力です。

最後の短期的なフェイズは、ポスト・リーマンショックの余波です。アメリカ大統領選でミレニアル世代が引き起こした民主党のサンダース旋風は、教育の連邦予算が3割も減らされたことの余波でもありました。ヨーロッパでいえば、南欧諸国の若年層の失業率は4割近い。中間層の購買力も削減していっています。

ただ、ユーロ危機を経た各国政府はソブリン危機を回避するために、緊縮策をとらざるを得ない。数年で財政赤字を半減もさせるような英国のようなことをすれば、既成政党が支持を失うのは当たり前です。これはブレグジットで白日の下に晒されました。

こうした長期、中期、短期のフェイズが絡み合って、いまのポピュリズムの勢いにつながっているといえます。

橋本 ポピュリズムの政治を支持しているコアな人たちは、戦後の産業構造の転換の中でいわば敗者となった人たちである。また、リーマンショック以降になって、人々の生活が全般的にリスクにさらされるようになった。そうしたことが重層的な背景としてあるということですね。ポピュリズムの動きが、リベラル・デモクラシーを危機にさらすものではないとして、ではいま何が問題なのでしょう。

吉田 ポピュリズムがリベラル・デモクラシーを、まったく危機にさらしていないというわけではありません。ポピュリズムはリベラル・デモクラシーのうち、権力分立や専門知識に依存する官僚制などに批判的な政治だといえます。

ただ、それは戦後の安定をもたらしていたリベラリズムのヘゲモニーが揺らいでいることの証左だと解すべきでしょう。そうした意味では、自由貿易と市場経済を全面的に許容した経済リベラリズムが自己反省して、より平等重視なデモクラティックな方向へと修正されなければ、ポピュリズムの勢いは今後も衰えないでしょう。

 読者の誤解のないように補っておくと、「敗者」というのは必ずしも「経済的敗者」を意味しないことについては、注意が必要だと思います。たとえばトランプにしても、富裕層からの支持も相当に大きいわけです。CNNの出口調査リンクを見ても、低収入者ではクリントン支持が多く、高収入者ではトランプ支持がわずかにクリントン支持を上回ります。

もちろん収入の効果を、年齢や人種などといったほかの要因の効果から切り離すには、ここに記されていないより複雑な分析が必要です。しかし、貧しい“から”トランプを支持したと理解するよりも、なぜ彼が経済的弱者“にも”訴求できたのか、と考えることが必要ではないかと思われます。

吉田 トランプの支持基盤は従来の共和党支持者でもありますから、もちろん富裕層もそこに含まれます。ちなみに高所得者層の投票先をみると、民主党のクリントンにも半分近くが行っていることも示唆的です。

所得以外では、社会・文化的価値の次元で、リベラルか権威主義的かが支持を分ける指標になっています。トランプがクリントンに最終的に競り勝ったのは、社会階層でいえば「中の下」、つまり戦後期に形成された中間層が権威主義的になって、その支持をも加えて獲得したから、とも解釈できます。

 そうですね。そういった意味で、吉田先生のおっしゃるように、受け皿を失ったという意味で「敗者」となった人々のニッチをつなぎ合わせたところにポピュリズムが現れると捉えた場合、なぜリベラルが受け皿にならなくなってしまったのかを考える必要があります。そのひとつの理由は、先ほどお話に出た緊縮的な財政政策にもあるかと思います。

橋本 経済的な敗者を救済するという問題は、リベラルな政治のもとでケインズ的な失業対策を行うという、いわゆる福祉国家リベラルでも対応可能です。しかし、そうしたリベラルな救済の理念が支持されない。なぜでしょうか?

吉田 そもそも既存の主流派、保革政党はともに緊縮寄りです。ベビーブーマーの高齢化に伴う財政逼迫と、グローバル市場の発達によるソブリン危機のリスクにあって、福祉国家リベラルという組み合わせは、ますます希少なものになっています。

それに対して、トランプ大統領の政策、さらに西欧の極右ポピュリスト政党は、財政政策についてはケインズ主義的、財政拡張派です。今のポピュリズムは、経済面ではかつての左派、社会・文化面ではかつての保守、という主流派に対する「逆張り」組み合わせを実現しているところに特徴があります。

橋本 高さん、日本の文脈ではいかがでしょうか?

 日本の場合には、財政の健全化に対する世論の要求が強いといえます。したがって、財政出動しないこと自体に、リベラルが求心力を失った原因があるかは疑問です。むしろ、実現可能かどうかは別として、支出の削減のみによる緊縮財政を打ち出す勢力の方が、支持を勝ち得ているように思います。

もっとも、財政出動すべきかそうでないかをめぐって、リベラル勢力が説得力ある、実現可能なヴィジョンを提示できないことは、財政出動しないことそのもの以上に、求心力の喪失をもたらしているとは思います。

社会・文化的な保守主義がポピュリズムの背景にあることについては、石原慎太郎や橋下徹の支持に権威主義や愛国主義などが関わっていることが、松谷満先生の分析によって明らかにされています。(『外国人へのまなざしと政治意識―社会調査で読み解く日本のナショナリズム』田辺俊介編)。もっとも、権威主義や愛国主義は、自民党の支持にも関わっていましたが。

文化的な保守主義とポピュリズムの接点というと、欧米の例をとっても、やはり移民・難民問題があげられます。しかし、日本の場合にはそもそも移民の受け入れには非常に抑制的で、難民でさえほとんど受け入れていない。また、リーマンショック後の不況期にも帰国政策がとられたように、移民は労働力の調節弁として便利に使われているわけです。そうしたなかで移民・難民に対する脅威論だけは欧米と同じように膨らんでいます。

このような事態が生ずる理由のひとつには、日本人が外国人だけでなく、様々な異質な他者に対しても示す不寛容さがあると思われます(池田謙一編『日本人の考え方 世界の人の考え方』)。もうひとつには、国外の言説の輸入ですね。現在、移民・難民との摩擦が問題となっているような国々には、日本で移民・難民の受け入れ規模を数倍に増やしたとしてもまだ追いつかないのですが、移民に対して不安を覚えている人たちにとって、外国で問題が生じていることが自分の不安を正当化する論拠になります。

橋本 日本では移民・難民の受け入れが抑制的であるにも関わらず、リベラル・デモクラシーに対する懐疑は他の先進諸国と同様に生じているということですね。

かつて西部邁は日本の順応的な中間大衆を批判して、これに保守主義を対置しましたが、その大衆が現在では分衆化して、しかし政治的にはその分衆が、こんどは保守的なポピュリズムの支持基盤になるというような、そんな道筋がありますね。政治の対立軸が「リベラル・デモクラシー」対「保守的・権威主義的ポピュリズム」になってきた。

吉田 西欧諸国の有権者を分析すれば、長期不況を受けて、既存のリベラル・社民政党を支持するポスト工業社会の中間層と、ポピュリズム勢力の支持に転換した没落する中間層はいずれも、方法はともあれ、再分配志向では共通しているとされます。ただ、そこでもっとも食い違っているのが、リベラルか権威主義的かの社会・文化的価値です。

リベラルが再分配の問題に改めて取り組まざるを得ない状況を迎えています。問題はいかなる資源をどのように分配するか。

具体的にいうと、ポスト工業社会の中間層はベーシックインカムに象徴されるような個人の生活空間を支持できるような再分配を好むでしょうし、戦後に形成された中間層は失業保険や最低賃金引き上げのような従来の所得代替型の再分配を好むでしょう。両者を架橋するのは簡単なことではないかもしれませんが、折り合いを付けて政策的解を見つけ出すのは政治の役割でもあります。

「ポスト・トゥルース」の時代をどう捉えるか

橋本 いま軸としては、「リベラル」対「権威主義的ポピュリズム」がある。そうしたなかで興味深い社会現象は、「ポスト・トゥルース」と呼ばれる時代が来た、といわれていることです。

2000年代前半にも、近代化の終焉から、「再魔術化」と呼ばれる現象が関心をひきました。占いを信じるなど、近代合理主義の基準からすれば非合理な慣習が復活している、と。現在、ポスト・トゥルースという言葉には、政治家・専門家・メディアに対する総不信という意味も含まれており、いわばエリート主義批判が全面化しているようにも見えます。

こうした現象とポピュリズムの関係を、どのようにみればよいのか。

吉田 鳩山由紀夫首相がかつて「政治を科学する」といって政治を変えようとしたことを思い出します。私自身は、今も昔も政治が「トゥルース」に基づいて展開されたことなどほとんどなかったし、これからもないだろうと思います。そうした意味で「ポスト・トゥルース」という言葉自体は何も意味しないと思っています。

ただ、それがここまで人口に膾炙するようになったのは、ご指摘のように、リベラルなメディアや識者のいうもっともらしいことが、一部の人々にはその発話する主体の属性ゆえに、説得的に響かないという構図があるからでしょう。

ポピュリズムは政治・経済・文化的エリートを標的にします。それゆえ、エリートがポピュリズムを批判すればするほど、ポピュリストのいうことが本当らしく聞こえるという、皮肉な結果をもたらすことになる。

このことと再魔術化やポスト世俗化の議論は、人は啓蒙されれば合理的に振舞うはずだ、という近代主義的な議論を破綻させているという意味で通低しています。つまり、「事実」さえ示せば、理知的で合理的な政治が可能になるはずだというのは、知的・文化産業に携わり、そのためのトレーニングを受けてきた者たちの思い込みにすぎません。

 アドルノの権威主義的パーソナリティの話をします。アドルノの理論が現在の実証的心理学でそのまま受け入れられているかというと、そうではないのですが、この問題に関して示唆に富んでいるからです。

アドルノらの権威主義パーソナリティは、反民主主義的な個人特性として理論化されたものです。アドルノらは9つの下位次元――「因習主義」や「権威主義的従属」といった――を設けていますが、そうした下位次元のひとつに、「破壊性とシニシズム」、人間的なものへの一般化された敵対と悪意、というものがあります。人間の善意とか良心とかを信じない傾向ですね。

項目としては、「ヨーロッパにおける残虐行為についての報告は、意識的な宣伝のねらいによって、ひどく誇張されてしまっている」「ずばり一言にしていうならば、ひとが自分の利益を考えることなしには何事もしないというのは、人間の本性なのだ」などがあります(アドルノ他著 = 田中他訳『権威主義的パーソナリティ』) 。

つまり権威主義の構成要素、あるいは深く関連のあるものとして、人間に対する一般化された敵意や猜疑心というものが、古くから注目されてきたわけですね。

もう少し個別の問題についての話をすると、私の専門は在日コリアンに対する偏見ですが、そうしたものを強める要因にも、マスメディアに対する不信感を挙げることができます。これは、排外主義団体の構成員への取材にもとづく安田浩一氏の『ネットと愛国』も指摘しているし、私の行った複数の計量研究でも支持されています。

マスメディアへの猜疑心は、他者一般が信頼する価値や規範や信念への敵意や猜疑という「シニシズム」の一つの表れであり、またそうした既存の価値や規範や信念が否定してきた差別や偏見を正当化することに繋がるわけです。「ポスト・トゥルース」と「権威主義的ポピュリズム」の関係を理解しようとするとき、こうした一般的な「シニシズム」とその表れ方を理解するのが欠かせないように思われます。

橋本 文化エリートを標的にするポピュリズムがなぜ生じるのか。高さんは、その背景にアドルノらのいう「権威主義的パーソナリティ」があって、それは人間的なものへの敵意や悪意だというわけですね。

アドルノらの分析は、近代合理主義、あるいは啓蒙主義の続行を求めるものです。そこでは、人間的なものへの憎悪は、理性化教育によって克服可能だとみなされました。しかし現在、そのような啓蒙主義が機能不全に陥っているのではないか。そうだとすると、この人間の憎悪を克服する道はどこにあるのか、が問題になりますね。

アドルノの後継者の一人ハーバマスは、合意としての真理(トゥルース)が政治的に調達可能であると考えました。そして、私たちの「コミュニケーション的理性」によって、真理に基づく政治の実現を展望しました。しかし経済が成熟して、文化的な価値が争われるようになると、合意の調達可能性が減っていく。その結果、私たちの社会全体の政治・経済的な目的を客観的に見定めるという発想(ミュルダール的な客観性)が通用しなくなる。

そういう時代状況のなかで、エリート批判が進んでいます。問題は、啓蒙されたリベラルなエリートによっては、おそらく価値の争いを調停できないかもしれない、ということです。エリート自身がひとつの階層として、「神々の争い」の一翼を担うようにみえてしまうからです。

吉田 人間は放っておけば権威主義的になるというのは、ある面においては真実なのかもしれません。ただ、実際には人間は権威主義的でも合理主義的でもなく、文化的空白が埋められないと実存的な不安を覚えるだけではないかという気もします。それゆえ重視しなければならないのは、政治空間がいかに編成されるかです。

今の「文化政治」、これは日本語だと誤解を招く言葉ですが、簡単にいうとモラル・イシューや個人の振る舞い方や価値観、それこそハーバマスのいう「様々な生活の文脈」が政治的な争点となると、これは政策的な解を出すことはできず、価値をめぐる対立になります。アメリカにおける死刑や中絶などの争点に典型的です。アメリカではこのモラル・イシューが全面化した結果、共和党と民主党支持者のあいだの党派的対立はかつないほど強度を増していくことになりました。

その起源を遡れば1970年代、まさにリベラルな価値が先進国で定着していく局面でした。そして1990年代以降、欧米の政党の政策において、文化や価値をめぐるものが前面化します。日本風にいえば、工業社会における労働の価値を中心とした「左派」はもはや見向きもされず、ポスト工業社会における「リベラル」へと転換していく局面ですね。

リベラルが社会的・経済的な平等性を後景に追いやったことで文化的空白地が生まれます。そこにリベラルを批判する権威主義的価値が伝搬していく素地が作り上げられていくことになります。これはグラムシのヘゲモニー論のエッセンス通りでもあります。

その文脈で気になるのは、若年層の権威主義的傾向の増加です。たとえば、因果関係は必ずしも明確ではないのですが、数土直紀(『社会意識からみた日本』)は、かつてであればリベラル層の供給源だった都市部の高学歴の若年層が、権威主義的傾向を持つようになっていると、SSM調査から結論づけています。これは、最近ではヤシャ・モンクが世界価値観調査を使って検証したように、各国の若年層で民主主義的価値がむしろ後退しているという指摘とも響きあいます。

そうした意味では、これから世代が入れ替わっていくなかで、リベラルな価値観が大きく揺らいでくる可能性があります。そう考えると、これからのリベラルな価値はどう維持されうるのかを考えるのは喫緊の課題ともいえます。

 先ほどの話について少し捕捉をしておくと、権威主義的パーソナリティ=病的なパーソナリティに原因を求めるのには、慎重になった方がいいように思われます。ただ、パーソナリティによるものであれ、状況によって誘発されたものであれ、権威主義的な態度と人間への一般化された不信とは、親和性が高いということですね。

そういった意味で吉田さんのおっしゃるように、政治空間の編成のされ方に注目するのは大事かと思います。また、人間一般に対して、あるいはマスメディアに対して、不信感を高めるようなメディア環境の変化に注目することも必要かと思われます。

若者が権威主義的かというと、一般的には若者の方が非権威主義的ですね。ただ、世界価値観調査を分析した稲増一憲先生によると、「権威や権力がより尊重される」ことが好ましいという回答が、2000年から2010年にかけて30歳未満の層で増加したことが示されており、今後の変化として注意が必要かもしれません(池田謙一編『日本人の考え方 世界の人の考え方』)。

これまで権威主義に対する緩衝材となっていた若年層がそうでなくなる可能性、また日本では少子高齢化により一層その傾向が強まる可能性、に注意する必要があるかと思います。

橋本 人間的なものに対する憎悪は、たとえばギデンズが「第三の道」で問題視したように、エリート層の子供たちが幸せな幼少期を過ごす一方で、親と同じステイタスを得られないという不満(自己愛憤怒)から生じるのか、それとも階層間移動の停滞(保守化)によって、低所得層の優秀な人材が十分な教育環境に恵まれず、メリトクラシーが機能していないことから生じているのか。

いずれにせよ、私たちはポピュリズムや若者たちの権威主義化を警戒する際に、啓蒙のプロジェクトを続行したいと考えているのか、それとも従来のリベラル・デモクラシーとは異なる政治を求めているのか。別の言い方をすれば、今日、リベラリズムの理念がもし有効であるとすれば、それはどんな政治運動になりうるのか、ということが問題になると思うのです。

しばしば「市民派リベラル」という言葉を私たちは使いますが、じつはこの「市民」とか「リベラル」というのが曖昧で、時代とともに変わっていく。すると今日、どのような政治理念が必要なのか。

リベラルの今日的な意味とは?

吉田 日本は戦後に先進国の仲間入りをして、まがりなりにも成熟した社会をつくり上げることができました。世界で1人当りGDPが3万ドルを超えるのは、30カ国もありませんが、日本はその一角を40年以上にわたって占めてきたわけです。それは疑いようがない、そして誇ってもよい戦後日本の功績です。

他方で、あるいはそれゆえに、他の先進国とも似て、自分たちの子供の世代は自分たちより豊かな生活は送れないだろうと親世代は考えるようになり、また若年者の側は(これは他国と比べて群を抜いて)将来に対して悲観的であることが、各種の意識調査から明らかになっています。

自由と精神的・物質的な豊かさと選択肢の拡大が、強固な共犯関係として成り立っていたのが戦後の時代です。そうした意味で、もしリベラルな価値が戦後の工業型高度成長によってもたらされたものだったのだとするならば、ポスト工業型社会における低成長時代にあって、リベラルな価値もまた衰退していくのかもしれない。

こうしたなかで、経済的な再分配に留まらないリベラルな社会、すなわち個人に立脚した社会構造をいかに保守していくのかは、大きな課題となりえます。いわば「保守すべきものとしてのリベラル」です。

保守化や権威主義化、右傾化などがいわれていますが、他方では誰もネット上の表現の自由が規制されたり、男性らしさや女性らしさが復権することなどは望んでいない。一部の政治的スローガンとしてはあっても、広く社会では望まれていない。このことは、過去数十年にわたって日本人の意識調査を行ってきた『日本人の意識』(NHK放送文化研究所)でも明らかです。

たとえば、結婚すること、子供を持つことが当然だとする日本人は、90年代からもはや少数派になっています。また、同性愛は否定的なものではないとする日本人も、この15年で1割ほど増えて約3割にのぼっています。その理由はともあれ、個人の自己決定権は認めるべきであるという意識は着実に増えていっている。最近では、婚外子への差別的待遇廃止や性犯罪被害者の予防や救済についても、理解が深まっています。こうした事実こそを大事にすべきでしょう。

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