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早野龍五教授最終講義「CERNと20年福島と6年 ―311号室を去るにあたって」 - 早野龍五 / 物理学

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「リュウ」「トシ」と呼び合う理由

1974年、大学院に進学しました。お約束通り山崎先生はおられません。そのかわり、ミュンヘン工科大のポール・キンネ先生がいました。修士1年生がドイツ人の先生と過ごすなんて当時は珍しいことです。そこで最初にやった仕事は、短波のアンテナ設営でした。僕は高校時代にアマチュア無線をやっていたので、お手のものです。これは何かと言いますと、キンネ先生はFCバイエルンのファンだったんですね。そして次の指示は、「辛いダイコンを買ってこい。薄切りにして塩でもんでビールを飲むぞ」と。3番目に命じられたのは、本物のキルシュトルテです。これは当時東京で探すのはとても難しかったのですが。

やがて、山崎先生から「バークレーにいらっしゃい」とお誘いを頂きました。中間子工場、メソンファクトリーが建設されつつありました。湯川秀樹先生が予言なさった中間子です。最初は宇宙線の中で見つかったπ中間子、これは放っておくと、μとニュートリノに壊れます。このμも最初は宇宙線の中に見つかった粒子です。陽子を加速して、金属標的にぶつける。それでπ中間子やμを大量に生成します。これを使って何か新しいことをやろうという企画です。

山崎研は、その前哨戦として、バークレーにあった184インチサイクロトロンで実験をしておりました。さて、僕がバークレーに着いた最初の日。ご挨拶に行ったのはオウエン・チェンバレン先生。反陽子という、陽子と質量が同じで、マイナスの電荷を持っている、そういう粒子を発見して、1959年にノーベル賞をお取りになった先生です。挨拶をしていたら、研究室のドアから若い大学院生がひょいと体を半分入れて、「ハーイ、オウエン!」と言いました。これはえらいところに来たものだ、と。ノーベル賞を取られた先生を、ファーストネームで呼んでしまうわけです。以来、僕は山崎先生を「トシ」と呼び、先生は僕を「リュウ」と呼びます。

理論を実験で見る

それから博士号を取るまで、ほとんどアメリカ西海岸で過ごしました。そこで、私の出世作とも言える研究をまとめることができました。

それが、「ミューオン」。これは磁石のような性質を持っています。壊れるときに、「パリティ非保存」と言いまして、電子がスピンの方向に出やすいか、反対に出やすいか、というのがあらかじめ決まっています。そしてプラスのミューオンというのは、スピンの方向に陽電子を出して壊れる。だから、電子が出る方向を見れば、崩壊したときにスピンがどっちを向いてるのかがわかる、というものです。さらに磁石の性質をもってますので、磁場をかけてやると歳差運動をします、「ぐりぐりっ」と。それが、寿命2.2マイクロ秒で壊れる。その様子を見てやると、時間と共に、ミューオンが回りながら壊れていく様子がわかる。

私が博士論文を書いた頃は、皆がスピンに対して垂直に磁場をかけていました。私は、磁場をかけない、ないしはスピンに対してちょっとだけ、弱い磁場をかける、こんな装置を作りました。博士課程3年目、あるときこの装置を使ったら、意味ありげなデータがとれました。当時は電子メールがないもので、航空便かFAXかで送りました。すると東京から指令が届きまして、「もっと長い時間のデータが見たい」と。そこで、データを取りました。すると、グラフが段々盛り上がってきた。実は、これは久保亮五先生が修士論文で書かれたものが、初めて実験で見えたのでした。久保亮五先生、ご存じない方もおられるかもしれませんが、平成の元号を制定したときに委員をされていた物理学者です。

久保亮五先生が書かれたのは、全くアカデミックな論文で、「この世で実際にそれが見えることはないだろう」と思われていたのが、今回実験で見えたので、大変喜んで頂けました。

その後、高温超電導体が見つかって話題になったとき、私のそのときの論文がずいぶん引用されました。現在までに580くらいの引用です。私のヒット作ですね。

アマチュアの心で、プロの仕事を、楽しそうにやること

物質を研究するためには、たとえば「磁場をかける」とか「低温にする」という手段があります。原子物理学の代表的な実験手段は、レーザーです。素粒子物理学、原子核物理学では加速器と放射線検出器。私はこれらの道具を使って、物性物理学の実験をするということを、博士論文を書いた当時はやっておりました。

このころ私が学んだこと、そして先生に教えられたことは、まず「国際的であること」。これはかなり叩き込まれました。そして、「学際的であること」。〇〇学と〇〇学の間にはおもしろいものがあります。それから、「原点にもどって考えること」。

研究としては、「人がやらないことをやること」。この、「人がやらないことをやる」ということは、やり始めたときにはアマチュアなんです。知らないことをやってるわけですから。だから、「アマチュアの心で、最後はプロの仕事としてまとめること」。そして、もっと大事なことは、「楽しそうにやること」。決して楽しくないんですよ。駄目な日もいっぱいあるんだから。だけど、それでも「楽しそうに」やること。これは、長く続けるためにはとても大切なことです。

共著者リストが1ページで終わらない実験

当時はパソコンができる前の時代でしたから、ミニコンピュータといいました。これが実験室に入ってきて、コンピュータ・ネットワークが始まった時代。私はそういう時期にアメリカ西海岸で教え込まれましたので、後に東大に来てから、「計算物理」を書きました。これで勉強された学生も多いでしょう。1980年代、つくばの高エネ研(高エネルギー加速器研究機構)の助教授をやっておりました。この時期に、初めて海外から日本のコンピュータへのハッキング事件があり、私がそれを見つけて、ドイツだと特定しました。

さて、その後の私がなにをやっていたかというと、論文を651本書きました。h-index82、すなわち80人以上に引用された論文が82本ということで、この研究分野では比較的多いです。この論文を全て話すことはとても無理なので、今日はかいつまんで話すわけなんですが、そうすると、「ああ、せっかく聞きに来たのに、私の関係した研究はすっとばされた」と感じられる方も多いかと思いますが、ごめんなさい、すっ飛ばします。

1986年に、僕は東大に助教授として着任いたしました。すると、隣の研究室にいた先輩に、突然重大なことを告げられました。

「僕、まもなくコロンビア大の教授になるねん。君、高エネルギー重イオン実験の日本側代表になってくれへんか」

「え?」

いえ、僕はそんなことやったことないんです。でも、「人から物事を頼まれているうちが花かな」と思い、お引き受けいたしました。

原子核を高いエネルギーにして、「がちゃん」とぶつける。すると真ん中に高温状態ができて、もしかしたら、クォークやグルーオン(いずれも素粒子)が自由に飛び交う「クォーク・グルーオン・プラズマ」というものに相転移をするのではないか、というのが1980年代に話題になっておりました。初期の宇宙、ビッグバンの後は、実は陽子も中性子もなくて、宇宙にはこういうものがあったのではと信じられています。おそらくそうです。それを実験室の中で遡って、一瞬だけでも見られないか。これを目指した、アメリカのロングアイランドのブルックヘブン国立研究所というのがあるんですが、ここで博士をとったのが、今日の司会者(櫻井博儀教授)です。

私はそこの重イオン衝突型加速器(RHIC)で始まったPHENIX実験の創立メンバーでした。実験全体の設計やマネージメント、予算獲得や測定器の設計と製作など、日米のメンバーと日々、喧々諤々やっておりました。毎月ニューヨークに飛ぶ生活です。論文を書くと、共著者リストが1ページでは終わらない、という大きな実験でありました。私はその後ニューヨークからジュネーブに転身いたしますが、PHENIXで当時からその後もクォーク・グルーオン・プラズマを研究されて、2011年の仁科記念賞をとられた秋葉康之さんも、本日は来ておられます。

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