- 2017年03月15日 08:30
【読書感想】教養としての「世界史」の読み方
2/2著者は「ローマが大国になれた理由」について、こんな考察をしています。
もう一つ、ローマが大国になれた要因としてポリュビオスが指摘したのは、ローマ人の宗教的な誠実さでした。
ポリュビオスの『歴史』には、ローマ貴族の葬礼について述べた文章があるのですが、そこで彼はとても面白い考察をしています。偉業を成し名を上げた人々の肖像が一堂に並び、まるで生命を吹き込まれたかのような姿を見せているそのありさまを見て、恍惚としない者がいるだろうか。これに勝る光景がいったいどこにあり得よう(『歴史』より)
これが、葬礼の場で、親族が死者そっくりの仮面をつけて現れたのを見たときの驚きを述べたものです。
なぜ彼がこれほどまでに驚き、「これに勝る光景はない」と言ったのかというと、この光景を目にしたときポリュビオスは、ギリシア人は公よりも個を大切にするが、ローマ人は個よりも公共の安泰を重んじる。なぜ、ローマ人はこれほどまでに公共を重んじることができるのか、という謎の答えに気づいたからなのです。
ポリュビオスは、ローマ人が公共を重んじるのは、若者の頃からこうした感動的な葬儀を経験することで、「たとえ死んだとしても、その英雄的功績は
こうして永遠に語り継がれるのだ」という思想的刷り込みが行われているからだ、と考察しています。
ポリュビオスは、こうしたやり方を非難しているというわけではありません。それどころか、ローマ人はギリシア人には到底かなわない生真面目さと、敬虔さを持っていると述べています。
これを読みながら、僕はちょっと考え込んでしまったんですよね。
ローマが「帝国」として繁栄したのは、こういう「英雄たちの物語」をつくりあげ、公のために生きること、死ぬことは、個人を大切にするよりもすばらしいことなのだ、と人々に信じさせることに成功したから、だとするならば、これはまるで、太平洋戦争に突き進んでいった、大日本帝国と同じではないか、と。
大日本帝国のほうが、ローマのようだった、と言うべきなんでしょうけど。
そして、これが正しいのであれば、「公のために、個を犠牲にすること」が美化されにくい今の日本は、国として繁栄することは難しいのかもしれません。
また、奴隷制度やアヘン戦争についての、イギリスのこんな話も紹介されています。
19世紀半ば頃から、(アメリカにとっての)本国イギリスで、人権思想の高まりから奴隷制は廃止すべきだという動きが広がっていきます。
この時代のイギリスでは、国益のためであればどんなことでもするべきだという、ある意味他民族の人権を無視する人々と、そういう考え方はイギリス人として恥ずべきものだとして反対する人々の勢力が拮抗していました。
奴隷制とは直接関係はありませんが、イギリスが中国清王朝と戦ったアヘン戦争(1840〜1842)の際も、開戦か否かを決定する審議は、賛成271票、反対262票という僅差で開戦に踏み切っています。
このときも反対する人々は、「儲かるからといってアヘンなんかを売りつけておいて、今度はそれが侵害されたからといってその国を攻めるというのは、イギリス人の恥だ」と主張しています。
あの帝国主義時代のイギリスにも、そういう良心を持った人が半分くらい存在していたのか、と思ったんですよね。
もうみんな、イケイケドンドン、というか、片っ端から植民地にしてしまえ、というムードだったのではないかと勝手に想像していました。
そういう「良心的」な人が半分くらいいても、過半数を得たほうの方針に従って、アヘン戦争は開戦されました。
ナチスだって、ドイツ国民が諸手をあげて、その政策を支持していたわけではないのに、あんな歴史的な悲劇を生むことになってしまった。
その一方で、アメリカでは国を南北に分裂させながらも、奴隷制廃止を成し遂げました。
国というのは「賛否が半々だから、半分だけ戦争しよう」というわけにはいかないんですよね。
民主主義的であろうとすれば、多数を占めたほうの意思に従おうとすれば、こういうことは、これからの歴史でも必ず起こってくるはずです。
人間は歴史に学ぶことができないかもしれないけれど、歴史に学んだ個人が増えれば、悲劇的な歴史が生まれる可能性を少しでも減らせる可能性はあるのではないか?
そもそも、「歴史に学ぶ」とは、どういうことなのか?
まず、そこから考えてみたい、という人は、手に取ってみて損はしないと思います。

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