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- 2011年10月01日 21:10
汚れちまった悲しみに
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今日は仕事で神戸から東京に日帰り出張だった。
のぞみの車窓から眺めるともなしに景色を眺めながら、「この辺はまだ大丈夫なのだな」と思った。
もちろん、静岡県の茶葉でさえ放射性物質が検出されているのだから、ちっとも大丈夫ではないのだが、このあたりの人々は、故郷が汚されてしまったとはあまり感じていないだろう。
実は我々は皆、すでにヒバクシャなのだが。
この夏、仙台と郡山に行った。
「美しい景色でしょう。美しいだけに哀しくなるんです」と東北の人は言った。
放射性物質は目に見えないけれど、確実にあの山々に降り積もっていた。
そこに生まれ育ち、そこしか故郷と呼べる場所がない人々の、何かかけがえのないものが踏みにじられて、汚されたのだ。
東北の方々とふれあう
汚れちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
1年間に100ミリシーベルト未満の放射線を浴びても人体に影響があるという証拠はないから、大丈夫だということにして、それ以下の地域は除染しなくていい、と言い出す人がいる。
証拠がないということと、人体に影響がないということとは全く違う。
さらに、原発推進派は、放射線管理は経済学の問題だというのだ。
違う。
放射線被曝の問題は、人の命と幸せの問題だ。
東日本大震災から半年 本当の復興とは被災者の幸福追求権を保障すること
汚れちまった悲しみに
たとえば狐の皮衣
汚れちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる
そもそも、100ミリシーベルト被曝すると、0・5%ガンになる確率が上がるなどという、ICRPの基準が全くでたらめなのは、このブログで何度も何度も取り上げてきた。
その基準は近距離被爆者と遠距離被爆者を比較したABCC→放射線影響研究所の疫学調査を元にしていて、この調査は非曝露対照群の設定に誤りがあり、被曝した人同士を比べてしまっている。
それでは何十年追跡調査しても、なかなか差が出ないのは当たり前だ。だから、当然、放射線の影響を過小評価してしまっている。それで、チェルノブイリで最も深刻な健康被害はストレスだったと言い出す始末だ。
むしろ、放射線の影響を矮小化するための調査だったのではないかとさえ思われる。
子どもの日 内部被曝の恐怖25 近畿原爆症集団認定訴訟 大阪高裁判決文よりICRP基準の問題点
原発推進派からは、挙げ句の果てに、微量の放射線は身体にいいかも?などという話まで出てくる始末だ。このブログでも散々笑いものにしてきた低線量放射線治療法を本気で取り上げる人がいるのだ。
人の命を軽く考える人たちの論理もまたあまりにも軽い。
出口が見えない放射能汚染土壌の除染問題 けれども安易な「解決」より問題を真摯に考え続ける誠実さを
汚れちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れちまった悲しみは
倦怠のうちに死を夢む
他方で、福島は放射線管理区域だから、放射性物質を測定しない限り、法律通り、そこから物を持ち出しても、人が出てもいけないなどという人がいる。
そこが本当に例えば研究室、例えば原発で、放射線管理区域に指定されているのなら法律上はそうだ。しかし、放射線管理区域と同じレベルの放射線があるのにそこで暮らせという文部科学省も無茶苦茶だが、放射線管理区域自体ではないのに、そこに現に暮らしている人々に原発作業員と同じ規制に従えと言うのは滅茶苦茶すぎる。
学校庭放射線量基準 年間20ミリ 文科省撤回要請行動「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」
平泉大文字送り火:被災家屋の木材使用 京都五山の送り火は陸前高田の薪使用中止
そういう感覚だから、陸前高田の薪を京都五山の送り火で使うと危険だとか、室内にあった花火を打ち上げても危険だとか言う話になってしまうのだ。
薪を送り火で燃やして今以上に被曝するわけもないが(京都の人だってもうヒバクシャなのだ)、気になるなら皮を削れば良かった。
外に置いていたら湿気てしまう花火を稲わらのように屋外に出しているわけがなかろうとか(事実そうだった)、花火を打ち上げても、原爆じゃあるまいし、下に居る人が被曝するわけがないだとか、冷静になれば普通はこうだろう、というような感覚が、脱原発派も麻痺し始めている。
まるで伝染病患者を隔離するのと同じ感覚で語っていることに気づかないのだろうか。もともと正しい指摘をしていた人たちの一部が知らず知らずにいわれなき差別を始めている。大多数の脱原発派の足を引っ張っている。
除染まで時間がかかるのに、そんなことを言っていたら福島の人々は人として生きていけない。被害者をさらに苦しめる。
本当に「心の復興」が必要なのは被災者ではないのかもしれないです
汚れちまった悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる
中原中也
心と体と故郷を汚されてしまった人々の悲しみに、我々はどうやったら寄り添えるのだろうか。
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今日は仕事で神戸から東京に日帰り出張だった。
のぞみの車窓から眺めるともなしに景色を眺めながら、「この辺はまだ大丈夫なのだな」と思った。
もちろん、静岡県の茶葉でさえ放射性物質が検出されているのだから、ちっとも大丈夫ではないのだが、このあたりの人々は、故郷が汚されてしまったとはあまり感じていないだろう。
実は我々は皆、すでにヒバクシャなのだが。
この夏、仙台と郡山に行った。
「美しい景色でしょう。美しいだけに哀しくなるんです」と東北の人は言った。
放射性物質は目に見えないけれど、確実にあの山々に降り積もっていた。
そこに生まれ育ち、そこしか故郷と呼べる場所がない人々の、何かかけがえのないものが踏みにじられて、汚されたのだ。
東北の方々とふれあう
汚れちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
1年間に100ミリシーベルト未満の放射線を浴びても人体に影響があるという証拠はないから、大丈夫だということにして、それ以下の地域は除染しなくていい、と言い出す人がいる。
証拠がないということと、人体に影響がないということとは全く違う。
さらに、原発推進派は、放射線管理は経済学の問題だというのだ。
違う。
放射線被曝の問題は、人の命と幸せの問題だ。
東日本大震災から半年 本当の復興とは被災者の幸福追求権を保障すること
汚れちまった悲しみに
たとえば狐の皮衣
汚れちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる
そもそも、100ミリシーベルト被曝すると、0・5%ガンになる確率が上がるなどという、ICRPの基準が全くでたらめなのは、このブログで何度も何度も取り上げてきた。
その基準は近距離被爆者と遠距離被爆者を比較したABCC→放射線影響研究所の疫学調査を元にしていて、この調査は非曝露対照群の設定に誤りがあり、被曝した人同士を比べてしまっている。
それでは何十年追跡調査しても、なかなか差が出ないのは当たり前だ。だから、当然、放射線の影響を過小評価してしまっている。それで、チェルノブイリで最も深刻な健康被害はストレスだったと言い出す始末だ。
むしろ、放射線の影響を矮小化するための調査だったのではないかとさえ思われる。
子どもの日 内部被曝の恐怖25 近畿原爆症集団認定訴訟 大阪高裁判決文よりICRP基準の問題点
原発推進派からは、挙げ句の果てに、微量の放射線は身体にいいかも?などという話まで出てくる始末だ。このブログでも散々笑いものにしてきた低線量放射線治療法を本気で取り上げる人がいるのだ。
人の命を軽く考える人たちの論理もまたあまりにも軽い。
出口が見えない放射能汚染土壌の除染問題 けれども安易な「解決」より問題を真摯に考え続ける誠実さを
汚れちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れちまった悲しみは
倦怠のうちに死を夢む
他方で、福島は放射線管理区域だから、放射性物質を測定しない限り、法律通り、そこから物を持ち出しても、人が出てもいけないなどという人がいる。
そこが本当に例えば研究室、例えば原発で、放射線管理区域に指定されているのなら法律上はそうだ。しかし、放射線管理区域と同じレベルの放射線があるのにそこで暮らせという文部科学省も無茶苦茶だが、放射線管理区域自体ではないのに、そこに現に暮らしている人々に原発作業員と同じ規制に従えと言うのは滅茶苦茶すぎる。
学校庭放射線量基準 年間20ミリ 文科省撤回要請行動「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」
平泉大文字送り火:被災家屋の木材使用 京都五山の送り火は陸前高田の薪使用中止
そういう感覚だから、陸前高田の薪を京都五山の送り火で使うと危険だとか、室内にあった花火を打ち上げても危険だとか言う話になってしまうのだ。
薪を送り火で燃やして今以上に被曝するわけもないが(京都の人だってもうヒバクシャなのだ)、気になるなら皮を削れば良かった。
外に置いていたら湿気てしまう花火を稲わらのように屋外に出しているわけがなかろうとか(事実そうだった)、花火を打ち上げても、原爆じゃあるまいし、下に居る人が被曝するわけがないだとか、冷静になれば普通はこうだろう、というような感覚が、脱原発派も麻痺し始めている。
まるで伝染病患者を隔離するのと同じ感覚で語っていることに気づかないのだろうか。もともと正しい指摘をしていた人たちの一部が知らず知らずにいわれなき差別を始めている。大多数の脱原発派の足を引っ張っている。
除染まで時間がかかるのに、そんなことを言っていたら福島の人々は人として生きていけない。被害者をさらに苦しめる。
本当に「心の復興」が必要なのは被災者ではないのかもしれないです
汚れちまった悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる
中原中也
心と体と故郷を汚されてしまった人々の悲しみに、我々はどうやったら寄り添えるのだろうか。
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