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「できる」と「できない」の間の話

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「できる」人から見た「できない」人

この本の面白いところは、そんな卑屈なカナヅチ秀実さんと、スイミングスクールのコーチである桂さんの、往復書簡になっていることである。秀実さんの体験談が続いたあと、それを読んだ桂コーチのフィードバックが入る。そして、この「できる」人と「できない」人の認識のズレ、みたいなのがとても興味深い。通常、スイミングスクールで水泳を習っていても、その途中の心境を文章にして残すことなんてほとんどないだろう。また、それを読んだコーチ側が、文章でフィードバックを返してくれることなんてもっとない。「できる」人と「できない」人の間にはズレみたいなのが当然あるはずなのだけど、それが言語化・可視化されると、ここがこんなふうにズレてたんだ、みたいなのがわかって面白いのだ。

冒頭の卑屈な秀実さんに対して、桂コーチは「泳いでる人がプールで抜かすときに挨拶しないのは当たり前でしょうが、泳いでるんだから」とごもっともなことを返す。だけど、「それにしても、水がこんなにもこわかったのですね」とも書く。この桂コーチのパートはちょっとした答え合わせにもなっていて、ここの認識がおかしいから変えればいいんだとか、ここの考え方は普通だし合ってたとか、「できる」側は「できない」側の世界を、「できない」側は「できる」側の世界を、想像するためのヒントになっている。

あとは、単純な言った言わない論争みたいなのも「あるある」なのだけど、読んでいると面白い(というか笑える)。桂コーチはあのときこう言った、いやこうは言ってない、桂コーチはあのときこう言った、いやそれはそうじゃなくてこういうニュアンスで言ったんだ、桂コーチは言ってることがコロコロ変わる、いや秀実さんの段階に合わせてあえて変えてるんですよ、いや混乱するから変えないでくださいよ、などなど、もうホントに細かいのだけど、人間同士だとこういうことってまじでよくある。

みんな苦しかった

なんとか水に顔を浸けることには慣れた秀実さん、しかしなかなか泳げるようにならない。息継ぎができないのである。息継ぎができなくて、苦しいので、25mを泳ぎ切ることができずプールの途中で立ってしまうのだ。

すると桂コーチ、同じ水泳クラスの生徒さんたちに問いかける。

「鈴木さん、泳いでいて苦しいですか?」
「そりゃあ、苦しいですよ」
「山本さんは?」
「苦しいわよ。決まってるじゃない」
「中村さんは?」
「苦しいわ」

秀実さんは、ここで「うそ?」と驚く。自分以外は苦しくなくて、苦しくないから25mを泳ぎ切れるんだと思っていたらしい。しかし、実はみんな苦しくて、苦しいのを我慢していた。桂コーチは、驚く秀実さんに「我慢すれば息継ぎしなくても25mはいける」と説く。

しかしそうは言っても、苦しいものは苦しい。苦しいのは恐怖である。我慢すればいけると説かれても、はいわかりましたとすぐに25mいけるわけではない。が、桂コーチは「呼吸しにここに来てるんですか? 泳ぎに来てるんですよね。じゃあ泳いでください」とスパルタである。読んでるこっちが泣きそう。秀実さんも完全にビビっている。が、そう言われては仕方ないので、秀実さんは泳いでは途中で立ち怒られ、泳いでは途中で立ち怒られ、を繰り返すうちに、だんだんと25mはいけるようになってくる。しかし、「なんで立つの!」と怒り狂う桂コーチ、プールの真ん中で立ち尽くしシュンとする秀実さん、怖いのとかわいそうなのと面白いのとで、この本のいちばんの盛り上がり所である(たぶん)。

どうすれば「できる」ようになるのか

ネタバレご法度かもしれないが、結論からいうと、秀実さんは最終的に泳げる人になる。「できない」世界から「できる」世界へ、見事な飛翔を遂げる──といいたいところだが、泳げるようにはなるものの、泳げるようになっても秀実さんは未だにグジグジウジウジしている。巻末に秀実さんと桂コーチと小澤征良さん*1の鼎談があるのだけど、そこでもまだ「水が怖い」「プールに行きたくない」「泳ぎたくない」「泳げない(泳げるのに)」などと言っている。

せっかく泳げるようになったのに何でこんなに卑屈なんだ……と人によっては疑問に思うかもしれないけれど、しかしこれこそがリアルな「できる」人の世界なのだろう。水中では息が吸えなくて、それが苦しいのは泳げるようになっても変わらないのだ。各々の「できる」ことと「できない」ことを思い出してみると、心当たりがあるはずだ。

何かが「できる」ようになるためにはどうすればいいのか? となると、究極な話、「できるまで頑張る」しか道はない。しかし、できるまで頑張れないことが多いから、できるようにならない。では、「できるまで頑張る」にはどうすればいいのか、どうすれば諦めずにいられるのかというと、秀実さんみたいにエッセイのネタにするとか、ブログに書くとか、人に話すとかして、できない状況そのものを「面白がる」しかない。福音なのは、できないままでもイヤイヤでも真面目に続けていると、意外とまわりの人が世話を焼いてくれるということである。

もう一つは、「できる」人の世界を、なるべくリアルに想像することである。そして、この本はそんなリアルな「できる」人の世界を想像するのに、とても役立つ。泳げる人でも、水は怖いし息は苦しいし、プールには行きたくないのだ。

というわけで、この本はとても面白い。何かが「できない」ことで悩んでいるすべての人に、読んでみてほしいと思う。1日で読めるが、笑っちゃうので電車などで読む際は注意が必要だ。

最後に、このエッセイは以前紹介した高野秀行さんの『腰痛探検家』の続編として読むと、理解が深まる。『腰痛探検家』は「解決したい悩みがあるけどどうしたらいいかわからない」人へ、『はい、泳げません』は「どうしたらいいのかはなんとなくわかるんだけどできない」人へ、贈りたいエッセイである。どちらも、読み物として一級品であることを私が保証する。

aniram-czech.hatenablog.com

*1:指揮者の小澤征爾さんの娘。桂コーチの生徒だったらしい

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