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「愛国教育」の行き着くところ

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 愛国的な教育を標榜する小学校が大きな話題になっている。

 森友学園による元国有地の取得価格が安すぎるのではないかという疑惑に端を発して、さまざまな問題が語られている。言うまでもなく、国有地の取得過程や同学園の教育内容に関して、語りうる資格をぼくは持たない。あえて言うとすれば、子どもたちが健やかな環境のもとで学んでいけるよう決着させることが大人としての責任だろう。

 このエントリで取り上げたいのは、森友学園の籠池理事長がTBSラジオの番組である『荻上チキ・Session-22』に出演したさいに語った内容についてだ。籠池氏が語った内容については、その音声および抄録の書き起こしが公開されているので、興味のある方はそちらを参照されたい。

 籠池氏は冒頭、自分たちは子どもたちに「性善説」を教えていると語っている(先の書き起こしには未収録)。同氏の言う「性善説」の定義は定かではないが、文脈から言って「人は善意で行動する生き物だ」というぐらいの意味だろう。要するに、「自分もまた善意で動いているのであり、勘ぐられるような悪意ある行為などしていない」ということなのではないかと思う。

 ところがその直後、国有地の取得価格の公表を求めた木村真市議や、この問題が大きな注目を集めた契機となる報道をした朝日新聞の話になると、籠池氏は唐突に「性善説」を放棄する。彼らの批判は「するため」のものでしかない、つまりイチャモンをつけることが目的であって、国有地云々というのは難癖でしかないというのだ。そしてその背後には、衆議院議員に立候補したいという功名心や愛国心教育の阻止といった動機があると示唆する。

 自分たちは善意にもとづいて行動するが、自分たちと敵対する人びとは悪意によってのみ行動する。言い換えれば、自分たちは愛国者だが、敵対する人びとは非愛国者であるか、外国の手先でしかない。こうした認識に、ある種の愛国心に内在する問題があらわれているようにも思える。以下では、この点について論じてみたい。

愛と差別の関係

 『想像の共同体』などの著作で知られるナショナリズム研究者ベネディクト・アンダーソンは、ナショナリズムをわりと肯定的に評価している。たとえば彼は、ナショナリズムが同胞への愛に基づいているのに対して、人種主義は他の人種への差別に依拠していると論じる。

 ところが、この分類に対しては批判もある。愛と差別は簡単には切り離せないというのだ。ありがちなフィクションのストーリーを例に考えてみよう。

 主人公とヒロインとは深い愛情で結びついているが、普段はその感情をなかなか素直に表現することができない。ところが、ヒロインは悪の組織の手に落ちてしまう。主人公はそこでヒロインに対する深い愛を確認し、危険をおかして救出に向かう。

 この例に示されるように、愛がもっとも燃え上がるのは、その対象が脅威にさらされているときにほかならない。もちろん、自然災害や病気のように明確な敵が存在しない脅威も存在する。けれども多くの場合、脅威をもたらしているとされるのは、特定の人物あるいは集団だ。だからこそ、愛の強さは憎しみによってブーストされる。愛国心は、外国からの脅威に自国が晒されているときに、もっとも燃え上がりやすいのだ。

 それゆえ、愛国心を表明するにあたっては、敵の存在を強調することが手っ取り早い手段となる。そして、こうした手段への依存が深まるほど、敵の存在なくしては愛国心を表明することが困難になってしまう。愛よりも憎しみが前に出てしまうのだ。

 加えて、敵の存在を意識すればするほど、その人は陰謀論に絡め取られやすくなる。敵対的な連中は互いに手を結んでおり、自分たちを陥れるための陰謀をつねに張り巡らせているという世界観に近づいていく。籠池氏による「外国人がわれわれを陥れるために、幼稚園に子どもを入学させた」という主張は、典型的な陰謀論的発想のあらわれと言えよう。

公の場で語られる「愛」は偽善になる

 愛国心には、もう一つやっかいな問題がある。それを公の場で語ることの難しさだ。

 もともと、愛というのはきわめてプライベートな心情であり、公の場でそれを語る人物には、どうしても「うさんくささ」がつきまとう。この点について、政治哲学者のハンナ・アレントは次のように述べている。

友情と異なって、愛は、それが公的に曝される瞬間に殺され、あるいはむしろ消えてしまう。(「汝の愛を語らんとすることなかれ/愛は語ること能わざるものなればなり」)。愛はそれに固有の無世界性ゆえに、世界の変革とか世界の救済のような政治的目的に用いられるとき、ただの偽りとなり、堕落するだけである。
(出典)ハンナ・アレント、志水速雄訳(1958=1994)『人間の条件』ちくま学芸文庫、p.77。

 公の場で愛を語ることは、その瞬間に自己PRや自己正当化といった別の動機を呼び込んでしまう。だからこそ、無償の愛の背後には私的な利益が潜んでいるのではないかという猜疑心も生じやすくなる。人の心のなかを覗くことはできないからだ。

 実際、今回の森友学園の一件に関しても、「愛国心はならず者の最後の隠れ家(Patriotism is the last refuge of a scoundrel)」という有名な警句を引用している人を見かける。18世紀のイギリスの文学者であるサミュエル・ジョンソンの言葉だが、これは愛国心の存在を否定するものではない。

 この言葉が登場するのは、ジョンソン自身の著作ではなく、ジェイムズ・ボズウェルによるジョンソンの伝記『サミュエル・ジョンソン伝』(1775年)だ。これを紐解くと、ジョンソンが批判していたのは、「われわれの国に対する本物の惜しみない愛」ではなく「自己利益を覆い隠すために取り繕う、うわべだけの愛国心」だということがわかる(1934年版、p.348)。つまり、ジョンソンは愛国心なるものが存在することは否定していないが、それが利己的な人物によって詐称されうることを指摘しているわけだ。こうしたジョンソンの警句にも示されるように、「われこそは愛国者なり」という表明は、偽善者という非難を呼び込みやすい。

 そこで登場するのが、自分たちと敵対する人びとの利己性を殊更に強調するという手法だ。この手法を使えば、自分たちは愛国心に満ちた無私の存在だという気恥ずかしい自己提示を行うことなく、自らの利他性をアピールすることができる。「あいつらは自分のことしか考えてない」という非難をする人物は、「自分はみんなの利益を考えている」というメッセージを暗黙のうちに伝えているのだ。籠池氏が木村市議の利己性(衆議院議員になるための功名心)を訴えるのは、自己の利他性を強調するためのレトリックだと考えることができる。

 このように、自らの愛国心の強さをアピールしたい人にとって、利己的な人物は必要不可欠な存在である。「利己的な非愛国者」がいることで初めて、愛国者としての自らの存在が際立つからだ。もし仮に、社会の多くの成員が愛国心に燃えるような状況が生まれたとしても、彼らはどうにかして「愛国心の弱い人びと」を見つけ出し、糾弾することによって自らの愛国心を顕示し続けねばならないのである。

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