- 2017年03月01日 14:09
境界線と死者たちと狐のこと
4/4もうひとつの夢は高校時代の友人たちと繰り返し性的にまじわる「性夢」である。彼がその夢を定期的に見るようになったのは、彼女たちと会う機会が失われ、彼女たちのことを忘れようと決意した後である。だが、夢は時間を遡行して、ガールフレンドのひとりを妊娠させ、彼にその社会的責任を引き受けさせることになり、ついに彼女の死の遠因となる。時間の順逆が狂っている。でも、それがおそらくは夢が現実変成力をもつときの条件の一つなのだ。
誰も引き受け手のいない夢、つまり夢を見ているものが「そんな夢を見ていること」を拒否し、夢に見られているものが「そんな夢に登場していることを」拒否するような夢、誰も引き受け手のいない夢は現実を変成する力を持つ。夢を見るものも、夢に見られるものも、いずれもがその夢の「引き取り」を拒むとき、行き場を失った夢は境界を超えて現実に浸入してくる。
秋成の物語世界でも、同じ現象が繰り返し記録されている。『菊花の約』の陰風に乗って千里を旅する宗右衛門の霊魂も、『浅茅が宿』の夫勝四郎の帰りを七年待つうちに窮死した妻宮木の「怪しき鬼の化し」たる姿も、『吉備津の釜』の夫に裏切られた磯良の恨みも、いずれもその「思い」は思っている主体が物理的に消滅したときにはじめて物質化する。欲望は欲望する主体が不在となったときに異形のものとして現実化する。
『色彩を持たない多崎つくると、その巡礼の年』の主人公の際だった特徴は「欲望の自制」である。彼は他人に多くを求めないように、自分にも多くを求めない。謙抑的に生きることを「つくる」はモラルとして自らに課した。それは外形的にはディセントで「よい感じ」の人物を作り出すことに成功した。けれども、彼が「私がその欲望の持ち主です」という名乗りを回避するたびに、彼に忌避された欲望は「本籍地」を失って浮遊し始める。「つくる」はそれと意識しないまま、自分の欲望の「親権」を拒否することで、実際には無数の「悪霊」を世に解き放ってきたのである。たぶん。
「つくる」を癒やすべく登場した沙羅が彼に求めるのはだからたったひとつだけである。それは「ほんとうに欲しいもの」(232頁)を見つけて、それに向かってためらわず手を伸ばせ、ということである。おのれの欲望は、仮にそれが法外なものであったとしても、認めた方がいい。欲望をおのれの統御可能の範囲に収めておこうとするむなしい努力は止めた方がいい。過剰な抑制(というものが存在するのだ)は、ときに何か統御しえないほどに危険なものを解き放つことがあるからだ。
物語の最後で、「つくる」は自分の欲望にようやくまっすぐに向き合う。彼は求めるものを言葉にして、求めるものを抱き寄せて、自分の欲望の「引き受け手」になることを決意しようとしている。その望みが達せられるかどうか、私たちには知らされない。でも、とりあえずこの欲望は引き受け手を見出した。それは彼自身を傷つけることはあっても、他の誰かを傷つけることはもうないはずである。
予定の紙数を大きく過ぎたので、もう筆を擱くことにする。この小説は「濃い実在感をもつ非実在」がどのように嫉妬と欲望と暴力を賦活して、現実を変成することになるのかを描いた点で『雨月物語』の系譜に連なるものであり、そこに横溢する濃密に「日本的なもの」が村上文学世界性をかたちづくることになったというのが私の本作についての個人的解釈である。この解釈にどれほどの一般性があるかどうかわからないけれど、上田秋成-江藤淳-村上春樹というラインに沿って村上文学を論じたことがある人を知らないのでここに備忘のために記すのである。



