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境界線と死者たちと狐のこと

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上田秋成は彼が濃密な実在感を感じた「非実在」をかつて「狐」と呼んだことがある。狐憑きの狐である。人をたぶらかす妖獣である。そういうものが秋成の時代の人々の日常にはたしかにリアリティをもっていた。だが、当時の朱子学の世界像の中には妖怪狐狸、魑魅魍魎のための場所はなかった。「狐憑き」を学者たちはただの「癇」の病として切り捨てた。だが、秋成はあえて「狐」を擁護する立場をとった。その消息を江藤淳はかつてこう説明した。

「儒者の眼に見えるのは、病気という概念であって、『狐』という非現実の現存がもたらす圧力ではない。しかし、いったんアカデミイの門を出てみれば、『うきよ』に顔をのぞかせるのはつねに概念ではなくて、『狐』に憑かれた人間の奇怪な、しかし秩序の拘束のなかにいる『精神(ココロモチ)平常』なときにはたえてみられないほど濃い実在感に満ちた姿態である。あるいはまた、どうしても認めざるを得ない非現実の世界からのさまざまな信号である。」(『近代以前』、文藝春秋、1985年、238頁)

上田秋成自身はありありと「狐」の実在を感じた。学者や市井の常識人がどれほど否定しても、彼がそれを感じているという事実は揺るがない。

「誰の眼にも見えぬこの動物ほど濃い実在感をあたえるものを、秋成は外界の現実のなかにひとつもみとめることができなかった。」(同書、240頁)。

そして、アカデミイが一笑に付すこの実感に殉じる決意をしたときに『雨月物語』の作家が誕生した。それは秋成が見出した物語の「水脈」であった。この集団的な文化の古層から『雨月物語』の諸篇が湧き出してきたのである。

秋成の擁護した「狐」とは「私がそれを通じて現に共生している死者たちの世界-日本語がつくりあげて来た文化の堆積につながる回路」(24頁)のことだと江藤は言う。だから、もし、日本人の作家が文学的創造において余人を以ては代替しえないような達成を果たしたいと願うなら(つまり、「世界文学」をめざすなら)わがうちなる「狐」をみつめ、「狐」をめぐる物語を紡ぐしかない。江藤はそう考えた。江藤淳がこの文章を書いている時点(1960年代はじめ)において、50年後に秋成の系譜を引き継ぐ作家が登場し、世界的な名声を博することになるとはその慧眼をもってしても予見することはできなかっただろう。

指定の紙数が尽きたが、まだ新刊そのものの内容について触れていない。申し訳ないが、あとは駆け足で、一読して思いついたことを列挙しておく。

本作の「本歌」があるとすれば、それは秋成の『吉備津の釜』であろう。『吉備津の釜』は女の嫉妬が実体化して、男を喰い殺す物語である。裏切られた妻磯良の死霊は夫正太郎の背信を憎んで不貞の相手である袖をまず衰弱死させ、ついで夫を襲う。本作では時間の構成が逆になっていて、主人公「多崎つくる」が二十歳のころに死にもっとも近づいた経験から物語は始まる。「つくる」は死の息が顔にかかるところまで行って、生きて戻って来る。彼はその傷から長い時間をかけて回復した。けれども、彼には自分をそこまで追い込んだものが「何か」はついにわからなかい。その経験(というより「経験の欠如」)から組織的に目を背けているせいで人格が形成されるような経験のことを「トラウマ」と呼ぶ。沙羅という新しいガールフレンドは「つくる」に彼自身のトラウマを直視せよと告げる。その忠告に従って、何が自分を死の淵まで追い詰めたのかを探す旅に「つくる」は出かける。その旅はついには遠くフィンランドの郊外にまで彼を連れ出すことになるが、最後に彼が見出したのは、「非現実の現存がもたらす圧力」だった。効果だけがあって実在がないもの、秋成のいう「狐」が「つくる」を殺しかけたものの正体(というより「正体の不在」)だったのである。

そのもとになったのが嫉妬であるにせよ、裏返しになった愛情であるにせよ、限度を超えた所有欲であるにせよ、それは誰であれ、「つくる」に対して向ける必要も、その理由もない、筋目の通らない感情であった。しかし、どれほど「筋違い」であっても、いったん生まれた害意は害意として機能する。能『葵上』では、六条の御息所の妬心は彼女自身がそのような筋目の悪い感情を引き受けることを拒否したために強力な生き霊となった。「つくる」を死の淵まで追い詰めたものも、あるいはその生き霊に類するものだったのかも知れない。人間が一度でも抱いてしまった感情は、本人がそれを引き受けることを拒んだときに、「濃い実在感をもった非実在」に化すのである。

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