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境界線と死者たちと狐のこと

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「穴を掘る」という動詞を村上は創作のメタファーに頻用する。何かを創り出すための動作の比喩的表現なら、「家を建てる」でも「植物を育てる」でも「ご飯をつくる」でもよいはずだが、村上は「穴を掘る」しか使わない。それだけその動詞が小説を書いているときの作家の身体実感に近いのだろう。

無住の土地を歩いて、だいたい「当たり」をつける。そして「手慣れた工具」を使って、とりあえず足元の岩を砕いてゆく。毎日がりがり掘る。水脈が近づいてくるとちょっと空気が変わる。何か脈動しているものに接近しているのがわかる。鼓動が速くなる。体温が上がる。あるとき岩盤に亀裂が走り、そこから「何か」が湧出してくる。「それ」を掬い上げる。でも、持ち出せる量には限界がある。自分の手持ちの「器」に入るだけしか持ち帰ることはできない。「器」が一杯になったら、すばやく穴を出て地上に戻る。あまり長い時間「水脈」の近くにとどまり続けることはできない。なぜかはわからないが、そこには何か人間的スケールを超えたものがあり、それに身をさらし続けることはときに命にかかわることもあるからだ。

村上は別のところではこの岩盤の下にあるものを「地下二階」というメタファーも使って説明している。地下室の下の別の地下室。

「それは非常に特殊な扉があってわかりにくいので普通はなかなか入れないし、入らないで終わってしまう人もいる。ただ何か拍子にフッと入ってしまうと、そこには暗がりがあるんです。(・・・)その中入っていって、暗闇の中をめぐって、普通の家の中では見られないものを人は体験するんです。それは自分の過去と結びついていたりする、それは自分の魂の中に入っていくことだから。でも、そこからまた帰ってくるわけですね。あっちに行っちゃったままだと現実に復帰できないです。」(『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』、文藝春秋、2010年、98頁)

その暗闇のことを村上は「前近代の闇」というふうにも言っている。近代人が「なかったこと」にしている闇の部分。そこにアクセスして、戻って来ることができる特殊な技能者が作家である。村上春樹はそういうふうに考えている。そういう点では、現代の作家も中世における巫子祝部や遊行の芸能者とそれほど違うことをしているわけではない。巫女や遊行の「物狂い」に向かって「あなたはそれによってどのような自己表現をなそうとしているのか?」とか「どのような方法論的自覚をもってその芸をなしているのか?」と問う人はいない。同じように作家についても、方法論や前衛性のことはわきに措いて、その物語においてはどのような「闇」が戦慄的に開示されるのか、そのことだけに関心を集中させてもよいのではあるまいか。彼は「地下二階」で何を見てきたのか、それを問うてもよいのではあるまいか。

私はそのような立場から村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだ。そして、それが上田秋成の『雨月物語』の直系の系譜につらなる怪異譚であり、読者が覗き込むことになる「闇」は『吉備津の釜』や『浅茅が宿』を読んだときに私たちが覗き込むことになる「闇」とほとんど同質のものだという仮説を得た。それについて述べたいと思う。

村上春樹が上田秋成の直系の後継者であるという仮説は、おそらくすでに指摘している人がいると思うけれど、これは作家自身の選好を知れば誰にでもなしうる推理である。村上春樹はかつて『雨月物語』についてこんな評言を述べた。

「現実と非現実がぴたりときびすを接するように存在している。そしてその境界を超えることに人はそれほどの違和感を持たない。これは日本人の一種のメンタリティーの中に元来あったことじゃないかと思うんですよ。」(同書、94頁)

この文学的伝統は「自然主義リアリズム」によって途絶させられてしまった。現実と非現実の「通り抜け」という、近世まで日本人にとって自明の心的現象だったものを「近代的自我の独立に向けてむりやり引っぺがし」たことに村上はかなり腹を立てている。

作家はこの「非現実と現実の境界」を行き来することのできる特権的な技能者であり、同時にその境界線の「守り手」(センチネル)である。センチネルが要請されるのは、「向こう側」から到来するものは、定義上人間的な度量衡によって意味や価値を考量することのできないものであり、そのことが人を深く損ない、傷つけ、ときには殺すことさえあるからである。

村上春樹は境界線をめぐる物語を繰り返し書いてきた。あるときは「不意に壁の向こうに抜けて、二度と戻ってこなかった人」たちをめぐる物語として(『ノルウェイの森』、『ダンス・ダンス・ダンス』、『国境の南、太陽の西』、『スプートニクの恋人』など)。あるときは壁の向こうから私たちの世界に浸入してくる「邪悪なもの」を押し戻す仕事を引き受けた「センチネル」の物語として(『羊をめぐる冒険』、『かえるくん、東京を救う』、『ねじまき鳥クロニクル』、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』、『アフターダーク』など)。いずれの場合でも、物語は「境界線を越えるもの」をめぐって展開する。

「越境して立ち去ったもの」は村上の物語では誰一人戻ってこない。取り残されたものは、なぜ彼/彼女が消え去ったのか、ついにその理由を知らされない。でも、知りたい。だから、境界線の際まで行ってみる。それでも、越境者が立ち去った理由はついに開示されない。そのことが主人公に深い傷を残す。けれども、その代償に、主人公は成熟の階梯を一つだけ上り、この根源的に無意味な世界にかろうじて残された「ささやかだけれどたいせつなもの」を愛することを学ぶ。これは村上文学のほとんど全部の物語に共通している説話構造である。

かつて村上文学を評して「構造しかない」と切り捨てた批評家がいたが、この評言はなかば正しい。たしかに村上文学はこの説話的構造を繰り返し語っており、それによって「人間が住むことができる世界」を基礎づけようとしているからである。

私が村上春樹を上田秋成の系譜に位置づけるのは、秋成もまたありありと「地下二階」を感じ、境界線を行き来するものを描き続けた作家だからである。

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