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ロヒンギャ問題とは何か:民主化後のミャンマーで変わったこと、変わらないこと

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2月3日、国連人権理事会はミャンマー軍が「暴動」や「テロ」を理由にロヒンギャの人々(子どもを含む)を組織的に殺害しているうえ、集団レイプや強制移住などが横行する様子を「破滅的な残虐行為」と非難しました。これを受けて、ミャンマー政府の事実上のトップであるアウン・サン・スー・チー氏は2月16日、ミャンマー軍の行動を停止させると発表しました

ロヒンギャは、そのほとんどがムスリムで、人口は130万人以上とみられます。仏教徒が圧倒的多数を占めるミャンマーで、ロヒンギャはかねてから差別や迫害の対象となってきましたが、近年では、先述のように、ミャンマー軍による人道問題が深刻化。その結果、約15万人のロヒンギャが国際機関などからの支援を受けており、ミャンマー軍の活動は「民族浄化」や「虐殺」とも報じられています。

これと並行して、ボートに乗って逃れたロヒンギャがベンガル湾を漂流する事態も多発。それにともない、人身取引が横行しているだけでなく、多くのロヒンギャが周辺諸国から難民として受け入れられず、たらい回しにされる状況も生まれています。

2015年選挙で政権交代が実現し、ミャンマーは民主的な国としての一歩を踏み出しました。それと前後して、日本を含む各国からは投資が相次いでおり、ミャンマーは「東南アジア最後のフロンティア」とも呼ばれます。そのなかで深刻化するロヒンギャ問題は、ミャンマーを取り巻く闇を浮き彫りにしているといえます。

ロヒンギャとは誰か

ロヒンギャとは、バングラデシュとの国境ラカイン州の北西部に主に居住するムスリムの総称です。その語源は、この地にあった仏教王朝のアラカン王国(1430~1785)の王都ロハンに由来するといわれ、当時から仏教徒に混じってムスリムが暮らしていたことは確認されていますが、彼らが自らの呼称として「ロヒンギャ」を名乗り始めたのは、ビルマが独立して間もない1950年とみられています。逆に言うと、それ以前、この地で暮らすムスリムは、公式には「名なし」だったといえます。

この地のムスリムが、いわば「最近」になって自らの呼称を定めたのは、ビルマ(1988年にクーデタで権力を奪取した軍事政権は「ミャンマー」に国名を変更した)という国家が成立したことと無関係ではありません

「一つの国家が一つの国民で構成される」という観念は、近代西欧で生まれました。それ以前の世界では、ローマ帝国や中国の歴代王朝がそうであったように、異なる宗派や民族が一つの政治的権威のもとに統べられることが一般的で、イスラーム圏や東南アジアも、その例外ではありませんでした。「帝国」の語には抑圧的なイメージがありますが、異なる属性の者を排除する傾向は、むしろ「一つの国民」イメージを強要する近代国家の方が強いのです。実際、ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害は、キリスト教が絶対的な影響力を持っていた中世より、「国民の一体性」を前提とする近代になって、激しくなりました。

そのため、近代以降のどの国でも、ほとんどの人々は社会的に「一人前」と扱われるために、「主流」の文化に吸収・同化されていきました(フランスで各地の少数言語が加速度的に消滅していったのは、それまでヴェルサイユやパリの周辺で主に話されていた「フランス語」が、革命後に各地の小学校で強制されて以降)。しかし、なかには「国民」としての立場と自らの文化の両立を目指す人々もありました。ロヒンギャは、その一つの例といえます。

植民地支配から解放され、ビルマが国家として独立したことで、それまでいなかった「ビルマ国民」を作り出す必要が発生しました。そのなかで、人口のほぼ7割を占め、その多くが仏教徒でビルマ語を話すビルマ人が、暗黙のうちに「ビルマ国民」のイメージとなったことは、不思議でありません。

一方、ラカイン州には、アラカン王国時代だけでなく、19世紀からの英領植民地時代や太平洋戦争前後の時期に、やはり英国植民地だったベンガル(現バングラデシュ)から、多くのムスリムが流入していました。そのため、彼ら自身が強調するほど、「ロヒンギャ」のルーツは定かでありません。しかし、そうであるがゆえに、多数派の仏教徒ビルマ人から「外国人」と扱われてしまえば、教育や居住など様々な面で「国民」としての権利は保護されなくなります

こうしてみたとき、近代国家の誕生は、それまで「名なし」で差し支えなかったこの地のムスリムに、ビルマ人が圧倒的多数の社会で「一人前」と扱わせ、自分たちを「(外国人ではなく)ビルマ国民のうちの一部の集団」と認めさせる必要に直面させたといえるでしょう。これが「ロヒンギャ」誕生の転機となったのです。

人道危機の連鎖反応

独立後のビルマでは、ロヒンギャ出身議員が誕生するなど、両者の共存の道が開けたかにみえました。しかし、1962年に軍が政権を握り、「ビルマ式社会主義」を推し進めるなか、ビルマ人優遇策が強化され、それと並行して少数民族への圧迫も強まっていったのです。

このなかには、沿岸部で暮らすロヒンギャだけでなく、タイや中国との国境沿いの山岳地帯に暮らす、キリスト教徒中心のカチンやカレンなども含まれます。分離独立を求めるカチンやカレンの強硬派は、麻薬取引で軍資金を調達し、ミャンマー軍との戦闘を激化させました

ビルマ人とそれ以外の少数民族の間には、歴史的な不信感があります。それは植民地時代に英国が、この地の大多数を占める仏教徒ビルマ人を支配するために、インド系をはじめとするムスリムを商人層として、キリスト教に改宗させた山岳系を兵士や警官として、それぞれ利用したことによります。この関係は、独立後に逆転。人口で圧倒するビルマ人が少数民族を支配する構図に入れ替わったのです。植民地時代に生み出された遺恨が、その後の民族間の対立に発展した事例は、大虐殺で知られるルワンダをはじめとするアフリカと同様、スリランカなどアジアでもみられ、ミャンマーもその一例といえます。

ともあれ、ロヒンギャなど少数民族への弾圧は、1988年に再びクーデタで権力を握った軍事政権のもとで、一気に加速。軍事政権は「ビルマ化」政策を推し進め、特に山岳地帯の少数民族を排除しながら、ビルマ人の移住を奨励しました。弾圧の矛先はロヒンギャにも向かい、1990年代初頭には25万人以上のロヒンギャがバングラデシュに脱出。現在でもバングラデシュでは、公設の難民キャンプだけで、約3万人のロヒンギャがいるとみられます

しかし、これによってバングラデシュとミャンマーの双方の出入国管理が厳格化され、陸路での逃亡が困難になるなか、多くのロヒンギャはボートに乗ってベンガル湾へと漕ぎ出し始めました。ところが、人が何かを求める際に、そこに利益を見出す者が現れるのは人の世の常で、国外に避難しようとするロヒンギャたちは、相次いで悪質な難民斡旋業者に引っかかることになったのです。

この手の業者はシリアやソマリアの周辺でも多く確認されていますが、ロヒンギャの場合、人身取引業者はタイやマレーシアなどを拠点に活動しています。そのなかには、避難先のロヒンギャ男性と結婚することを条件にマレーシアに売られてきた少女も多く、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は2015年の報告書で、マレーシアだけで120人の子どもの花嫁がいると報告していますが、そのうち何人が人身取引の犠牲者かは不明です

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