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1997年3月11日

 事態が教えるものは、あまりにもはっきりしている。この程度の基本的、初歩的な事故を起こしうる設備がそもそも原子力発電所なのだ、ということだ。これにつけ加える、どんな理屈も不要だろう。
 この場合も、あたりまえのことをあたりまえといい切ること、すなわち常識こそが大事なのではないだろうか。危ないものを危ないと感じて、危ないものはやめようと提案し、危ないものに執着する論理は成り立たないと、ごくごくまっとうに考える市民の発想以外に、本来「原発論議」は存在しないなずなのだ。
 なぜそれなのに、あまりにも事態は「ほんらい」ではなく、「あたりまえ」ではないものがまことしやかに存在してしまうのか。むしろ「あたりまえ」を、そのにぎやかさで圧倒してしまうのか。むろん、それこそが情報帝国主義の、情報帝国主義である証拠なのだ、といってしまえばそれまでなのだが。
 原発は、いわば「国是」である。「国策」なのである。そして、それが国策であるかぎり、それについての情報はまったく市民に知らされず、それに対するあらゆる疑念自体が認められない。それは、まさに国策であるゆえに存在理由を持つのであり、そこに懐疑も、検証もあってはならないのである。それこそが一党独裁の強いる現実にほかならない。国策であるならなおのこと、十分な検証が必要なはずなのだが、むろんそういう「まとも」は、そこでは通用しないのである。
 危ないものを危ないと感じて、危ないものをやめようと提案して、危ないものに執着する論理はあり得ないとするところの、「まっとうな」市民感覚は、原発をめぐって存在を許されなかった。情報帝国主義は、さまざまな手だてをもって、それを押さえ込んできたのである。
 そのひとつに、原発を危険だなどというのは、科学的な無知のしからしむるものにすぎない、という「理屈」がある。これはけっこう有効な詭弁だった。この「理屈」は、「危険性などはない」という結論を、「無知」呼ばわりと引き換えにきめつけるけれども、その「無知」が納得するようには説明してくれるわけではなく、ただ懐疑は無知の結果であると、決めつけるだけなのだから。
 たとえわれわれ市民が、科学的な専門性を持たないのは事実だとしても、そしてそのかぎりでは「無知」であるのが事実であるにしても、それを「無知」呼ばわりすることで懐疑を嘲笑し、否定した論議は、ついに懐疑のなかにある無知を、懐疑を超えたところの「納得して安心した知的認識」に転じさせることができなかった。そんなにも、説得力のない専門性などというものがあるだろうか。
 はっきりいって、このきめつけにあったのは、論理でも専門性でもなく、ただ「無知」という高飛車な罵倒で、懐疑自体を封じ込める「政治」なのであり、そうである限り「無知」が正当に感じている懐疑や危惧に対して、「無知」よりはるかに非論理的であることははっきりしているのだ。
 さて、だからこそわたしは、さきの指摘にこそここでもどらなければならない。すなわち、この程度の基本的、初歩的な事故の可能性を持つのが、原子力発電所というものなのである、という指摘に。
 科学的な知識が、それだけで認識の優越性を保証するという考え方自体が意味を持たないが、それ以上にここでの皮肉な結論は判然としている。懐疑や危惧を無知呼ばわりした、科学的に優越している立場が、少なくとも専門家としては、この程度に基本的で、初歩的な事故を起こしてしまったのだ。つまりは、非専門家の「無知」が感じた懐疑や危惧こそが、じつは正当に事態を認識していたわけなのだから。
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上記の引用は同書の『「国策」はどのような「許容」をも許容しない』という項の一節である。

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かくもさまざまな言論操作

この引用の冒頭で指摘されている「事態」とは1997年に茨城県東海村にある旧動燃(現・日本原子力研究開発機構)の再処理工場で起きた爆発事故のこと(ちなみに「もんじゅ」を開発したのもこの旧動燃である)。
今回、こちらのブログのエントリーを書くにあたって、この事故のことを検索して驚いた(つまりは気づいていなかったということでもあるのだが)。
その日付というのが3月11日なのである。つまり本年3月11日から遡ること14年前の同じ日に東海村で重大な事故が起きていたわけだ。
驚くことは、この事態に対する岡庭氏の指摘が、今日の福島第一原発事故と寸分の狂いもなく符号することである。
つまり――
日本の原子力政策というのは、どのような事故が起きても一つも反省することなく継続されてきたということだ。
後世の人たちが、この歴史を振り返った時、「もしもあの時に原子力政策を見直していれば……」という、その「もしも」のタイミングは一つや二つではなかったろう。しかし、そのすべてのタイミングにおいて、「事故」は「事象」と言い換えられて、何一つ変わらぬまま日本の原子力政策は官民一体となって暴走してきた。
そして行きついた果てが2011年の3・11だったわけだ。

「原発をやめろというならば、その前にクルマの利用をやめろと言え。原発事故の死者はいないが、交通事故の死者は年間5000人だ」というような与太を言う人間が今でもいるそうだが、そういう輩はずっと昔から存在していた。
つまり、原発というのは事故を起こしても大したことはないのだから、どんどんやれということなのだろう。
そもそも、今回の福島第一原発事故の死者がいないというのもまた言論操作の一環だと私は考えているが、一万歩譲ってそれが事実だとしても、それは事故を起こした原発周辺に普段着の人間が近づいていないからというに過ぎないのである。
交通事故を処理する警官が防護服を着て作業をしているか? 現場に長時間いると危険だから入れ替わり立ち替わりの人海戦術をしているか? その事故現場には百年単位で人が近づけないなどということがあるか?
つまり、もう比較の仕方がまったく異なるのである。
にもかかわらず、原発を再開しろ社説でわめきたてている新聞社もあるそうだが、だまされてはいけない。すべては「言論操作」なのである。

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戦後日本の思想



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『東京電力福島第一原発事故とマスメディア』

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