- 2017年02月17日 07:27
ばらつく死因は好都合?
2/2ここのところの報道を見ると、死因判定のばらつきが原因でおかしなことが起きているように感じる。というか、昔から同じようなことは頻回に起きていると思うが、どの件にも共通点があると思われる。
多くの国では、複数の鑑定人が所属する法医学研究所で、同僚同志議論を積み重ねながら死因を判定しているが、日本では法医学的な鑑定機関が法医学教室といった小規模な機関であり、教室内の鑑定人は教授しかいないか、あるいは他にいたとしても、教授とは対等とは言えない助教や講師が1人しかいないという状況が生み出されている。このような環境では、教授一人の独裁となり、鑑定について同僚からの批判を受けることがなくなってしまう。結果的には、日本では鑑定の質が諸外国以上に大きくばらつくことになる。
鑑定がバラバラの機関が存在するという状態は、恣意的な結論を得たい検察・警察、弁護士にとっては大変都合が良いといえる。日本のどこにおいても同様の状態だが、特に東京都内のような大規模都市周辺は、大学が複数ある割りにいずれも小規模であり、日本の縮図といえ、容易に都合のよい鑑定人を見つけ出せてしまうところがあるため、より問題が起きやすいといえるかもしれない。
例えば、首に首絞めの形跡が明確にない死体がみつかった場合、ある鑑定人は慎重に対応し、「首絞めとは断定できない」と判断するが、警察のいうことを鵜呑みにする傾向のある別の鑑定人は「首絞めの可能性が高い」とか、「首絞めとして矛盾しない」などと断定に近い表現をすることがある。警察が被疑者を有罪にしたいなら、後者の鑑定人の書いた鑑定書だけを裁判にだせばいいだろう。
あるいは白骨の死体が見つかった場合、多くの法医学者は、「死因は不明とすべきだし、骨だけでは関節の拘縮があったかなどわかるわけがない」と考えるのに、「関節が曲がっているから関節に拘縮があったと思われる」と言ってくれてしまう者が現れたりする。警察や検察が被疑者の罪を重くしたいとき、後者の鑑定人の意見は、関節の拘縮に気づいていたのにわざと放置したというストーリーに利用可能である。
あるいは、警察が暴れる犯人を取り押さえていたら、突然犯人が死んでしまったようなケースでは、「外傷の関与は否定できない」と判断する鑑定人がいる一方で、「病死である」と断定する鑑定人もいる。もし警察が無罪にしたければ、後者に鑑定を任せればいい。
このように死因などの判定にばらつきがあることは、被疑者を有罪あるいは無罪にしたい場合、そのためのストーリー構成において非常に好都合なパーツを得やすくしているといえる。
もともと警察は犯人を捕まえ、事件を解決すると評価されるが、冤罪防止に尽力しても評価されない機関である。彼らが正義と思って行動したとしても、結果的に行き過ぎた捜査に陥る傾向があるなかで、法医学における死因鑑定にばらつきがあれば、警察が独特の正義感から有罪にしたいと思えば、警察のストーリーの通りに鑑定してくれる鑑定人を見つけ出すことができてしまうというわけだ。
しかしながら、これでは、法医学が本来目指すべき、公平・公正さが実現されているとはいいがたい。必ずしも科学的・客観的に正しい鑑定が採用されないことも起きるので、冤罪は起きやすくなるし、警察内で発生した犯罪は隠蔽しやすくもなる。国民にとっては大きな問題だ。
本来は中立・公正であるべき法医学的な観点からは、現在の状況は大いに問題があるため、以前から法医学会としては政府に対して、複数の鑑定人が所属し、相互に批判しあえるような機関として諸外国のような法医学研究所の設置を要望してきた。しかしながら、この要望はいまでも無視され、法医学を取り巻く状況はむしろ悪化しているといえる。
特に最近は、警察や検察が鑑定する法医学者を恣意的に選ぶ傾向は強まっているようにみえるし、警察が予算等の都合で、法医学的に必要な検査(組織検査やDNA検査)をやるなと言ってきたりもする。
このままでは、えん罪発生の予防には基本的に関心の薄い捜査側のやりたい放題となってしまうので、大変危険な状態といえるのだが、国民がその実態を知らないのは問題といえるだろう。その点、メディアが、鑑定のばらつきの原因について、深く掘り下げて報じないのも問題のように思う。
国民の安全安心のためには、公平公正であるべき法医学がしっかり機能し、ある時は行き過ぎた正義感から発生する行き過ぎた捜査を諫めることができるような制度作りを進めなければならない。



