- 2017年02月02日 14:00
ポピュリズムを嗤ってはいけない――ポピュリズム化する時代の民主主義の希望について考える――
1/2上から目線の嘲笑は有効ではない
トランプ政権が正式に誕生してまだ間もないが、大統領就任以前の楽観はすっかり消え去ったようだ。トランプの選挙期間中の言動はパフォーマンスに過ぎず、就任後には有能なビジネスマンとして現実的で合理的な政策を遂行するという楽観だ。TPPから離脱し、NAFTAの再交渉を開始し、移民を制限し、メキシコとの国境に壁を作る。アメリカ第一主義というキャッチフレーズの下で今後さらに押し進められるであろう政策は、唯一の超大国アメリカの思想と行動を大きく変えつつある。これに伴い、現行の世界秩序も激震に見舞われることは、もはや確実なものとなりつつある。
こうした中、トランプ大統領自身の言動の醜悪さや保護主義的な貿易政策あるいは移民政策の非合理性をポピュリズムに押し付ける批判が見受けられる。そこには、エリートの上から目線の嘲笑を含んだ論調が少なからずある。
その類の論調は多くの賛同を得るにはすでに時代遅れになってしまった。この冷笑的な態度こそ、エリートに対する不信を醸成し、ポピュリストに親近感を感じさせる要因の一つと言えるからだ。したがって、こうした論調でトランプ政権を批判しても、それほど有効ではない。では、トランプ政権を批判するにせよあるいは擁護するにせよ、今後の民主政治の先行きを考える上で必要なことは何か。それは、トランプ政権の誕生を支え、イギリスのEU離脱を実現させ、ヨーロッパの政治を動揺させているポピュリズムと真剣に向き合うことである。
民主主義がポピュリズム化する条件
ポピュリズムと真剣に向き合わなければならないのは、それが先進民主主義諸国の例外的事例とか病的な状態とかではもはやなく、通常の状態になりつつあるからだ。すなわち、民主主義はポピュリズム化しつつある――ポピュリズムとはそもそも何か、ポピュリズムと民主主義はどう区別されてきたかについては、http://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2016/09/23/232913などを参照して欲しい――。もちろん、アメリカには独自のポピュリズムの歴史や理解が存在するし、同様に、ヨーロッパやラテンアメリカ、アジアなどの諸国家もそうである。しかし、アメリカやヨーロッパの民主主義諸国に話を限定したとしても、それらの国々の独自性に関わらず、民主主義が一様にポピュリズム化せざるを得ない二つの条件がある。
一つの条件は、現在の有権者にとって既成の政党や政治家に自らの代表を見出すことが困難になっているという、代表制民主主義の機能不全である。教科書風に言えば、第二次大戦後、代表制度が迎えた黄金期は高度に組織化された政党とそれを支える社会集団――そうした集団は、労働者や資本家といったように経済的利害関心によって区分される――との固定化された連携によって実現された。この連携の中で、有権者は自らの属する社会集団の支持政党と比較的安定した関係を保持していたと言える。しかし、そうした連携が1990年代以降、各国で次第に弱まってきたことは、無党派層の増大と党員の減少などから、誰もが知るところである。この背景には、何より社会の複雑性の深まりに伴う有権者の政治関心の多様化という現象があるが、それはともかく、政党と有権者集団との安定的な結びつきの消失は、結果として、代表制度の下で政治が社会の諸要求を適切にマネージすることを困難にしてきた。ここから、代表制度への不満や不信が蔓延し、既成の政党によっては自分の利害や関心は代表されないと考える有権者、すなわち、「見捨てられた」有権者が増大することになる。この「見捨てられた」有権者こそ、ポピュリストの最大の支持基盤であることは、以前のコラムで指摘したとおりだ。
もう一つの条件は社会の分断である。現代の社会は利害関心や価値観、ライフスタイルの点で多様化しているだけではない。現在、この多様性は社会を敵対し合う陣営へと分断させる原因となりつつある。そもそも、自由主義と結び付いた現代の民主主義は社会の多様性を称揚してきた。社会の構成員が各々の善を追求することができる社会こそ、望ましい社会であると見なしてきたわけだ。もちろん、今でも、この多様性は民主的な社会がそれ以外の社会に比べ魅力的である理由を説明してくれる。ところが、この多様な社会の成員は、自分とは異なる成員に対して、寛容ではなく敵意の眼差しを向けるようになっている。そこには、グローバル化と新自由主義に翻弄される人びとのルサンチマンが渦巻いているように見える。グローバル化によって国家が国民の生活の安全を保障する力を弱めつつある中で、新自由主義的な政策によって終わることのない競争を強いられ、その勝敗をすべて自己責任で片付けられてしまう人びとのルサンチマンだ。絶望的な無力感から生まれるこのルサンチマンこそ、多様な社会を相互の敵意によって分断する原動力となっているのではないか。そして、敵意を煽り立てることで社会に亀裂を生じさせる一方で、自分こそ人びとの真の代表者だと「見捨てられた」有権者に語り掛けるのがポピュリストである。これも、以前のコラムで論じたことである。
代表制度の機能不全と社会の分断。これらは、現代の先進諸国に共通する条件と言える。代表制度の抜本的な改革や社会の亀裂の修復が容易に果たしうる課題ではないことは明らかだろう。ここから、ポピュリズムは民主主義の例外ではなく常態になりつつあると言えるのだ。
ポピュリズムの魅力と危うさ
では、今、ポピュリズムに真剣に向き合うことで、何が見えてくるのか。
一つは、民主主義の本質である。近代の民主的な政治は自由主義――自立した存在として想定された個人の自由を何より重視する――と結合することで、政府や社会の多数者から少数者の権利を守るための様々な仕組みを制度化してきた。その仕組みの一例が、立憲主義である。また、選挙で選出されたエリートによる政治という代表制度もその仕組みの一つとして見なすことができる。現在では、このエリート――一般に、政治家を中心にして、官僚、知識人、利益集団などから構成される――が先導する政治を民主主義のノーマルなあり方とするのが通念となっている。ところが、ポピュリズムは、既存のエリート政治を拒絶し、民主主義の本来の姿に訴えかける。それが、政治エリートから普通の人びとに政治権力を取り戻し――トランプの大統領就任演説を思い出して欲しい――、普通の人びとが自分たちのために行う政治である。政治学では、こうした政治のあり方を人民主権と呼ぶが、ポピュリズムはこの人民主権という民主主義の本来の姿を強烈に喚起させる。ポピュリズムに真剣に向き合うことで見えてくるのは、民主主義の本来の姿であると同時に、エリート主義に偏向した現代の民主主義の歪んだ姿だと言えるだろう。



