記事

ベネズエラで絶賛されていた渡辺俊介の「その後」 中学補欠から世界一へ上り詰めたミスター・サブマリン - 高森勇旗

画像を見る
渡辺俊介(Syunsuke Watanabe)
1976年生まれ。國學院大學栃木高等学校、國學院大學、新日本製鐵君津を経て、2000年ドラフト4位で千葉ロッテマリーンズに指名を受け入団。アマチュア時代はプロアマ混成チームであったシドニー五輪の代表にも選出された。05年には15勝を挙げるなど、球界を代表する投手として活躍。06年、09年のWBC日本代表にも選出され、「世界一」に貢献。13年オフに自由契約を申し出て、メジャーリーグに挑戦。14、15年は米独立リーグや、ベネズエラのウィンターリーグで活躍し、フェイスブックを利用して、イタリア、台湾などの球団からオファーがくるも、希望していたメジャーからのオファーはなく、15年12月、新日鐵住金かずさマジックにコーチ兼選手として入団。
(写真・NAONORI KOHIRA)


 「このままやってても、レギュラーにはなれない」

 補欠投手だった当時中学2年生の渡辺俊介に、父親がアンダースローへの転向を提案した。当時から体が柔らかかったことも手伝い、アンダースロー投手としての道を歩み始めた。

 「浮き上がるストレートを投げたい」

 前例があまりなく、フォームを教えてくれる人もいない。答えはボールに聞くしかない中では、意図せずとも自らと対話する下地はつくられていった。國學院大學時代、「たまたま調子が良かった」という試合に訪れた應武篤良監督の目に留まり、新日鐵君津に進む。社会人野球でチャンスを得た渡辺は徐々に頭角を現し、2年目の2000年、ドラフト4位指名を受け、千葉ロッテマリーンズに入団した。

 「どんな手を使ってでも勝つ。あの1勝は、たしかにターニングポイントになったと思う」

 あの1勝。3年目のシーズンとなった03年。前年未勝利に終わり、この年も登板した最初の試合で打ち込まれた。もうチャンスは来ないかもしれない。そんなときに、バッテリーコーチの袴田英利氏、井上祐二氏が当時の山本功児監督に頭を下げ、チャンスを求めてくれた。「もう1試合だけ、チャンスを与えてやってほしい」。

 当時、スピードを出すことにこだわりがあった。「下投げだからと言って、草野球のオジさんみたいにかわす投球はしないと決めていた」。

 しかし、ストレートの球速表示が120キロ台を示す度に、球場からは失笑が漏れた。「ストレートが遅いことが、悔しいし、恥ずかしかった」が、もう理想は言っていられなかった。

 「遅いボールを打てないバッターの方が、よっぽど恥ずかしいはずだ」

 どうすれば、遅いボールが速く見えるか。どうすれば、アンダースローでこの世界で生き残っていけるか。

 「遅いボールを磨く。〝曲がらない〟変化球を投げる。バッターにとって打ちづらいことだけを考え抜いた」

 試行錯誤の野球人生が幕を開けた。

4年目の04年。ボビー・バレンタインが監督に就任すると同時に、渡辺は新生マリーンズの象徴的な活躍を見せる。初の2桁勝利となる12勝を挙げ、翌年は15勝4敗と大きく勝ち越し、31年ぶりの優勝に大きく貢献。日本シリーズでも完封勝利を挙げた。06年には第1回WBCのメンバーに選ばれ、見事初優勝を飾る。

 「紙吹雪が舞って、王監督がいて、イチローさんがいて、夢を見てるんじゃないかって、本気で思った」

 ミスターサブマリン。渡辺俊介は、球史を代表するアンダースロー投手としての地位を確立した。

 気がつけば、ベテランの域に入っていた。13年目となった当時、若返りを図るチーム方針もあり、渡辺は2軍にいることが多くなった。ベテランとしての活躍をチームからは期待され、決して居場所がないわけではなかった。

 「自分がアドバイスをした選手が活躍すると、嬉しかった。でもそれは、現役選手としてどうなんだ、っていう思いも同時にあった」

 しかし、現役選手だからこそ見えることがあると信じていた渡辺は、チームを出ることを決める。

 「マリーンズのファンを思うと、国内の他のチームは考えられなかった。ボビーとの時間や、WBCでの経験もあって、アメリカに行きたいと思った」

 14年、レッドソックスのキャンプに参加。オープン戦を終え、ボストンに帰ろうとしたとき、首脳陣に呼び止められた。同時に呼ばれたのは、日本でもプレー経験のあるリーソップ。

 「リーソップとワタナベ、どちらかをリリースしなきゃいけない。今から会議して決めるから、待っててくれ」

 1時間半後、ワタナベは戦力外であることを言い渡された。

 「開幕直前の人数調整だった。突然だから、相当不安になるよね」

 2週間後、開幕直前に独立リーグのランカスターと契約。独立リーグといえど、毎試合5000人近くの観客が入り、年間140試合開催されるリーグである。渡辺はここで39試合に登板し、8勝2敗の成績を挙げた。11月には、ベネズエラで開催される現役メジャーリーガーも多く参加するウィンターリーグに参加。ここで活躍することはメジャーへのアピールとなる。ここでも渡辺は週間MVPを獲得するなど大活躍。ベネズエラでは珍しい日本人で、アンダースローということもあり、「街の飲食店はどこに行ってもタダにしてもらえた」というほど、街でも人気者となった。

「アメリカ、ベネズエラで、これだけの成績を残しても、メジャーからのオファーは来ない。これだけやってダメなら、しょうがない」

 元から2年はやると決めていた。翌年も、独立リーグではオールスターに選ばれるなど活躍。ベネズエラのウィンターリーグを含め、台湾、イタリアからもオファーは来た。しかし、その全てを断った。

 「海外にいると、みんな家族第一の生活をしていてね。俺も、家族に近いところで野球をやりたいなって思った」

数々のオファーから社会人野球を選んだワケ

 新日鐵住金かずさマジック。新日鐵君津を母体とした社会人野球チームに、コーチ兼任選手として復帰。社会人野球を選んだのは、家族の近くで野球をやるということとは別の理由もある。

 「社会人野球のプレッシャーはすごいんだよね。WBCは負けても野球を続けられるし、自分のチームに戻れる。でも、社会人野球ってさ、負けたら、チームがなくなるかもしれない」

 それに、と言って続ける。

 「社会人時代、負けたら廃部かもという試合で先発して、打たれた。無死満塁で代わった先輩のピッチャーが、三者連続三振に抑えてくれて、都市対抗に行けた。あの試合で抑えられなかったこと、これは、まだ清算できていなかった」

 16年、都市対抗出場がかかった試合に8回から登板。延長13回までの6イニングを0点に抑え、チームを都市対抗出場に導いた。

 「この試合で、過去にやり残したこともなくなった。世界中で好き勝手やらせてもらえた。もう、投げることはないと思う」。不世出のサブマリン、渡辺俊介。現役投手としてやるべきことを、全うした。

 勝てば世界一のWBC。ベネズエラでの2万人のスタンディングオベーション。負けたら廃部の社会人野球。いくつもの普通ではない体験が、渡辺から無駄な感情の起伏を消していく。

 「こうなろう、こうなりたい、という将来のことを考えたことは、これまでもなかった。今、求められていることに全力で取り組むだけ」

 落ち着き払った声が、室内に響く。

 「じゃあ、選手たちをみっちり鍛えてきます」

 取材を終え、コーチとしての顔を見せたとき、これまで見えなかった感情が少し、垣間見えた。選手の元に走っていく足取りが、妙に軽く見えた。

あわせて読みたい

「プロ野球」の記事一覧へ

トピックス

ランキング

  1. 1

    悪質な収集家に裁判官怒りの一言

    阿曽山大噴火

  2. 2

    国に従わず支援求める朝鮮学校

    赤池 まさあき

  3. 3

    立民議員の官僚叩きに批判が殺到

    音喜多 駿(参議院議員 / 東京都選挙区)

  4. 4

    ベガルタ選手 交際相手DVで逮捕

    SmartFLASH

  5. 5

    淡々とデマ正した毎日新聞は貴重

    文春オンライン

  6. 6

    机叩き…橋下氏語る菅首相の会食

    ABEMA TIMES

  7. 7

    初鹿明博氏が議員辞職する意向

    ABEMA TIMES

  8. 8

    歴史消す日本政府と追及せぬ記者

    田中龍作

  9. 9

    横浜スタジアム満員実験は無謀か

    WEDGE Infinity

  10. 10

    マスク拒否で降機「申し訳ない」

    ABEMA TIMES

ランキング一覧

ログイン

ログインするアカウントをお選びください。
以下のいずれかのアカウントでBLOGOSにログインすることができます。

コメントを書き込むには FacebookID、TwitterID のいずれかで認証を行う必要があります。

※livedoorIDでログインした場合、ご利用できるのはフォロー機能、マイページ機能、支持するボタンのみとなります。