- 2017年01月19日 10:25
ジャカルタ州知事の宗教冒涜容疑と「イスラム擁護アクション」 - 中村昇平 / 社会学・エスニシティ研究
4/4社会的寛容性に向けた課題
今回の騒動は、短期的に見ればバスキ知事のイメージに一部住民が感じていた反発が最悪のかたちで噴出した結果と見ることができる。バスキ知事の政治姿勢には、人種差別主義への強い反発と、インドネシアをより良い国にするために自身のモラルと正義を貫き通す信念が見て取れる。こうした姿勢は既に多くの住民から支持を受けているが、彼の信念を貫き通す「やり方」に賛同しない住民は多い。
中長期的な政治動向をみても、今回の事件は重要な出来事だった。ここ数年、宗教関連の法律制定や政府決定がイスラム少数派を含む宗教的マイノリティに対する弾圧を助長する要因となっていた[見市 2015]。その中で、イスラム擁護戦線などの強硬派イスラム組織やインドネシアウラマー評議会は重要な役割を果たしてきた。当初は、一連の騒動で強硬派イスラム組織の主導する運動が広範な大衆の支持を獲得したかにも見えた。しかし、動員の大規模化に至る流れを考慮すれば、急進派イスラム組織が喧伝するアジェンダに賛同する市民層が一挙に拡大したわけではない。
今回の騒動に際して、大統領と警察は足並みを揃えて強硬派の動きを抑えることに尽力した。大統領はその後も強硬派イスラム組織や宗教的不寛容を批判する発言を繰り返しており、社会的不寛容を促進する急進主義・原理主義的な組織や運動への対決姿勢を明確にしている。しかし警察は、治安と社会秩序の維持という目的があればこそ今回はデモの大規模化を阻止する方向に動いたが、この後も宗教的不寛容と対決する姿勢を示すことができるかは定かでない。
また、宗教的マイノリティ弾圧の看過や助長が今回の騒動の遠因になっているという事実は、インドネシア社会の民主主義と公正性を考える上でも示唆的である。今回の事件との関係では、貧困層の権利の問題や中華系住民への差別の問題は見過ごしてはいけない。どちらも権威主義体制期から続く問題であり、1998年の民主化以降状況は改善しているが、根本的な解決は見ていない。宗教冒涜疑惑を巡る一連の騒動は、こうした社会の歪みやトラウマから目を逸らさず改善の方向にもっていくことが民主主義の安定と社会の寛容性のためには不可欠であるということを、改めて思い知らせる事件でもあった。
注釈
(注1)当該フェイスブックポストの作成者は、宗教・人種などに基づいた憎悪の感情を喚起する情報を流布した罪で警察の捜査を受けており、既に被疑者となっている。
(注2)インドネシアウラマー評議会は1975年に政府の主導で設置された。非行政機構ではあるが、その法的見解(ファトワ)はイスラム教関連の事件をめぐる政府機関の動向や世論の形成に一定の影響力をもってきた。
(注3)インドネシア最大のイスラム組織であり、穏健派団体として知られるナフダトゥール・ウラマー(NU)とムハンマディーヤはデモを支持しない声明を出した。しかし、デモへの個人的参加は市民の権利だとして禁止はしなかった。NUはデモに組織名を用いることを禁止し、個人の参加も、バスキ知事への法的手続きを求めるというデモの目的が達成されるまでに限って支持すると明言した。
(注4)警察は、デモと暴動との関連はないと発表した。ジョコ大統領とバスキ氏も、暴動とデモの関連を強く否定している。
(注5)事前捜査(penyelidikan)では調査員の間で意見が分かれたが、公開の場に持ち越して判断を下すべきということで意見が一致し、11月15日、バスキ氏を被疑者(tersangka)とする運びとなった。現在行われている捜査(penyidikan)・公判の結果起訴されれば被告人(terpidana)となる。
(注6)11月2日、ユドヨノ前大統領は自宅で記者会見を開き、デモの裏に政治的動員の存在があると疑うことは民衆への侮辱であるとして警察を牽制するとともに、民衆の声が聞き入れられない限り騒動はいつまでも続くだろうと発言してデモを強く擁護した。息子であるアグス・ユドヨノ氏が2017年ジャカルタ週知事選に立候補していることから、ユドヨノ前大統領がデモを政治的に利用しているという批判が囁かれていた。先述の政党への根回しの中で大統領は、連立与党を構成する党だけではなく、野党グリンドラ党の党首であり、2014年大統領選挙でジョコ大統領の対立候補であったプラボウォ・スビアント氏とも複数回会談していた。しかし、同じく野党で、ユドヨノ前大統領が党首を務める民主党との会談は行っていない。
(注7)民衆からの批判だけでなく、イスラム系組織や政治家からの批判も多かった。第2回デモの不支持を明言した穏健派イスラム組織ナフダトゥール・ウラマーの代表も、この点では大統領を批判した。
(注8)インドネシアの大統領選挙、地方首長選挙は、正副大統領/首長候補がペアを組んで立候補し、そのペアに投票するかたちで選挙が行われる。
(注9)洪水と不法居住という都市問題の「正常化(normalisasi)」を掲げて行われる強制退去は、恣意的な法の執行、対話・説明プロセスの欠如、軍・警察の直接的動員といった側面が人権の観点から問題視され、NGOや現地住民から批判・反対運動が起きていた。さらに、埋め立てに関わる一連の政策は、その過程で行われる強制退去への批判に加え、大資本家の利益の為に庶民の生活を犠牲にしているという批判もある。これらの問題はドキュメンタリー映画にもなっている。
(注10)貧困層比率自体もこの10年余りで大きく減少している。CMEAとJICAの調べによれば、月の世帯収入が90万ルピア(約7,000円)以下の世帯は2002年の約25%から2010年には15%以下となっている[Arai 2015: 464]。
(注11)例えば10月末から11月はじめにかけて実施された世論調査によると、埋め立て問題で7割、宗教冒涜問題で8割の回答者がバスキ知事に非があると答えているにもかかわらず、州政の全体的評価に関しては5割以上が肯定的に捉えており、「普通」と答えた3割弱と合わせて、否定的に評価した1割強を大きく上回っている。
(注12)デモに否定的だった穏健派イスラム団体のナフダトゥール・ウラマーとムハンマディーヤも、デモが民主主義で保障された市民の権利であるという理由で個人としてのデモ参加を禁止しなかった。このことはデモの社会的評価を考える上で示唆的である。
(注13)例えば、インドネシアウラマー評議会には35億ルピア(日本円で約3,000万円ほど)の寄付があり、うち10億ルピアは1日で集まったと報じられた。また、複数のイスラム系慈善団体が数百人単位でボランティアを投入して食料や飲料水の供給を行うなど、人的資源の投入も様々な方面からなされた。
参考文献
Arai, Kenichiro. 2015. Jakarta “Since Yesterday”: The Making of the Post-New Order Regime in an Indonesian Metropolis. Southeast Asian Studies, 4(3).
見市建. 2015. 「ユドヨノの保守的宗教政策とジョコウィ政権における変化」『アジ研ワールド・トレンド』241: 25-27.
画像を見る中村昇平(なかむら・しょうへい)
社会学・エスニシティ研究
1986年生まれ。同志社大学社会学部卒業、京都大学文学研究科博士前期課程修了、2012年より同研究科博士後期課程に在籍。専門はエスニシティ研究。論文に、「ブタウィ・エスニシティの歴史的変遷過程──現代ジャカルタでバタヴィア先住民が示す「異質な他者」への寛容性の起源」『ソシオロジ』59(1): 3-19頁(2014年)、「近隣コミュニティへの帰属意識とエスニシティの観念──ジャカルタにおけるブタウィの日常的認識枠組みから」『京都社会学年報』23: 75-100頁(2015年)など。



