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「あんた、生きてんのか死んでんのか、わかんねえよ」──社会的にそう感じている人はたくさんいる。──羽田圭介(1)|作家と90分|瀧井 朝世

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映画や小説の感想までネットで検索してから語る人がすごく増えてきた。

――「コンテクスト」、つまり文脈というものについては後半になって重要な意味を持ってくる。先ほどもおっしゃっていましたが、空気を読む、文脈を読む、という風潮への強烈な皮肉がありますよね。

羽田 たとえば日本の、それこそM-1グランプリの濃いお笑いなどと海外のスラップスティックコメディーを比べると、絶対に日本のお笑いの情報量のほうが多いんです。だから日本人から見たら、海外のお笑いは大雑把すぎてレベルが低く見えてしまうんです。じゃあなんで日本のお笑いのほうが繊細で濃く見えるのかというと、そこに阿吽の呼吸で伝わるものがあるからでしょう。多くの人が日本語しか使わない日本の中で何かやろうとすると、阿吽の呼吸でなんでも伝わるので、情報量の高い種類のお笑いが作られていく。実生活でも、それぞれ同じ年代、同じ業種の人たちが自分たちだけに伝わるような話し言葉で会話していたりしますよね。それは確かにコミュニケーションが効率的にできるし結束を高めるにはいいけれども、そのコミュニティーの外にいる人には何も伝わらない。排他的になる危険性をはらんでいるんです。だから、阿吽の呼吸で伝わってしまうものに対して、何か疑ったほうがいいんじゃないかと思うんです。自分だってこんな日本語の純文学というドメスティックな世界でやっていて、それを捨てろというのは難しいですけれど。でも、それに対して自覚的でなければまずいなと思います。

――『メタモルフォシス』(14年刊/のち新潮文庫)で著者インタビューした時に、「次は内輪文化の排他性について書きます」っておっしゃっていたのは、この作品のことだったんですね。

羽田 そうですね、これのことですね。

――作中に、映画を観たらすぐネットで感想を検索して、人の感想を読んで分かった気になっている人物も出てきますよね。映画の感想でさえ、人と共通した意識を持つことに安心するタイプ。

羽田 はい。瀧井さんのことではないですけれど、こういうインタビューを受ける時、僕がデビューした2003年と最近ではなんか違うと感じるんですよ。最近会う若いインタビュアーの人って、ネットに載っていたり、パッケージに書いてあるようなことをそのまま言っているだけの人がいるんです。

――まさに同じ感想を抱いた、っていうことかもしれませんよ? 私もそういうことがあるので今のは耳が痛い(笑)。

羽田 いえ、たとえば、今までそんな感想はなかったのに、評論家の人が何かの媒体でわりと珍しいフレーズを使った書評を書いたら、それ以降の取材ではみんなその言葉を使うようになっていたりするんです。それって自分の感想じゃないんじゃないか、っていう。別の人がそんな珍しい単語使って同じような感想言うわけないのに、って思うことがあるんです。僕がデビューした高校時代から比べて、今はそういう人がすごく増えたと感じます。

――作中にもあるように、「みんな間違いたくない」のかもしれません。でも著者は見抜いているわけですね。さて、後半の展開はゾンビもののお約束を踏まえつつというのは分かりますが、エンディングは最初から決めていたんでしょうか。あれは笑いましたが(笑)。

羽田 また内輪ネタに戻しました(笑)。実はその後も構想していたんです。でも小説って、書き始めた頃は無限の可能性がありますけれども、書いていたらだんだん納まるべきところに納まっていくんです。だんだん作者も読者も、こういう展開ならありえるな、と見えてくると思うんですよ。なので、その後まで詳しく書く必要はないのかなと思いました。それで、あの部分で終わりにしました。

純文学とは「人はなぜ生きるのか」なんてことよりも、もっとくだらなくて、野蛮で面白くて、「人はなぜ生きるのか」という問いも馬鹿に出来るもの。

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『スクラップ・アンド・ビルド』 (羽田圭介 著)(文藝春秋 刊)

――高校生でデビューして、どんどん純文学として洗練させていったら人に読まれなくなって、そして今回は洗練しつつもエンタメ性を高めて読まれるように工夫して。その執筆途中で『スクラップ・アンド・ビルド』(15年文藝春秋刊)で芥川賞を受賞したわけですが、何かそれがこの作品の執筆に影響を与えませんでしたか。

羽田 第一稿はとっくに書き上げていて、最終バージョンと9割以上変わらない状態で直しに悩んでいる最中に、受賞したんです。でも芥川賞を受賞していなかったら、この作品でもっともっと自分の考えていることを全部表現しようとして、なかなか自分の手を離れなかったでしょうね。余分な要素は削っていきました。

――批判や風刺がこもっているし、最後にコンテクストに対する向き合い方への主張も伝わってくるし、この設定だから伝わってくるものがありますよね。かつ、750枚を一気読みさせる面白さがある。

羽田 実は最初の段階で1300枚あったんですよ。こんなに直して削った作品は初めてです。500枚近くドブに捨てるなんて。1300枚を1000枚にした時はわりと妥当な直しだったと思います。そこから編集者とやりとりして200枚削ることになったんですが、どっちが正しいかいまだに分かりませんね。数年後には削らなかったほうがよかったと思うかもしれないし、さらに月日が経ったらこっちでよかったと思うかもしれない。永遠に分からないと思います。

――今回はエンタメ小説とも言いたくなるし、でも純文学でもあるわけですよね。ご自身ではどういう感覚ですか。

羽田 どっちか分からないですよね。でもこれ、エンタメの小説誌にはたぶん載らないですよね(笑)。

――もともと小説を書こうとした時に、それまで主にエンタメを読んできたのに、純文学を書こうと思われたんですよね。高校生の頃。

羽田 そうです。綿矢りささんが純文学の文藝賞でデビューしたのを知って、自分も純文学を書いてみようと思いました。でもデビュー作の『黒冷水』も原稿用紙400枚とかあるんですよね。400枚で受け付けてくれる純文学の雑誌は『文藝』しかなくて。でもそれで純文学でデビューしたので、そこから無理やり純文学をたくさん読んで勉強しました。

――その時に読んだのが中村文則さんの『銃』だったという話は前にもうかがいましたね。

羽田 そう。こういうのが純文学なんだと思ったという。そもそも中学生の時から埼玉から東京の学校に通っていたので、毎日2時間くらい本を読む時間があったんです。それをずっとやってると、紋切り型のエンタメに飽きを感じるようになったんですよ。なんか、数行先に書いてある描写がずっと予測できるのが耐えられなくなってきて。物語の大筋が見えるのはいいんですが、数行先の文章がずっと予測できるのは小説ではない。そんな時に純文学とかを読むと、なんか自由だなと感じたんですよね。昔は純文学というのは小難しいものだと思っていたけれど、高校の終わりくらいから難しいのではなく、わりと自由に書いているんだなということが分かって、憧れが強くなりました。

――そう、純文学というと小難しいものだと思っている人って大勢いますよね。私、この間、文芸関係ではない人から「人はなぜ生きるのかというテーマで書かれたのが純文学ですよね」と言われてびっくりしてしまって。羽田さんだったら純文学とは何か、どう説明しますか。

羽田 文章の表面の面白さの小説だと思います。「人はなぜ生きるのか」なんてことよりもっとくだらなくて野蛮なことが書かれていて、でもそこに書かれていることだけで面白い。「人がなぜ生きるのか」みたいな問いを馬鹿にするようなことも、学校教育に反するようなことも平気で書かれていて面白い。つまりは文章で楽しませてくれるもの、ということだと思いますけれどね。

――そう、そうですよね。

【テレビには顰蹙を買うために出ている。肯定的な意見ばかりの同業者の世界でなく、見ず知らずの場所で馬鹿にされる経験は、絶対に小説にプラスになる。──羽田圭介(2)】に続く

聞き手:瀧井 朝世

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