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『日本解凍法案大綱―同族会社の少数株、買います!』3章  銀座のウェストという店 その2

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牛島信(弁護士)

「こんな話をしても他人様には関係のないことですし、仕方がないことなのですが、ごらんのとおり私の老い先も長くありません。今日お見かけして、この機会を逸すれば二度とお会いすることはないと思うと、どうしても話しかけずにはいられなかったのです。どうかくれぐれも無作法をお許しください」

なにも聞かれたわけでもないのに、自分から、

「妻を思うと、後悔ばかりなのです。妻が死の床にいたとき、私は仕事をしていた。海外にいたのです。サハラ砂漠の真ん中でした。

いつも仕事ばかりしていました。

そのころ、20年ほど前のことでしたか、病気の奥さんの面倒をみるからと市長を辞めた男の人のことを新聞で読んだことがありました。へえ、と思いました。そのときの私には理解できなかった。でも、今はわかる。わかりすぎるほどわかります。私の場合は、もう妻は亡くなっています。後悔しているというのではありません。そのときの私は私なりに必死だったですからね。

でも、身勝手だった。

今となってみると、私は私が許せないのです。愛していたからじゃないんです。外からはそうみえてもほんとは違う。自分が問題なんです。どういう自分でいたいかなんです。自分というのは、しょせん自分で定義するものではありませんか。

私はどうして寝たきりでいる妻の傍にいてやる男ではなかったのか。

仕事をしなくなってみると、生きてきた自分の中身はなにだったのか、自分とはなにだったのか、と毎日々々考えないではいられません」

俺は思いもかけない告白に、まじまじとその老紳士の顔を眺めたまま黙って聞いていた。

「実は、自分の一生は妻と生きていた男ということ以外のなにものでもないはずなのに、と。それなのに、私はそいつを投げ捨ててしまった。まことに古い表現ですが、弊履のごとく、です。履き潰した靴のように」

言い終わると、なにを思ってか老人は、母と妻とその隣に立っていた若い女性店員とをかわるがわる眺めていた。

俺は思ったね。

「命短し そのとおり。 しかし、恋をしようとしまいと、人間だれもが年を取り、いずれ死ぬ。その瞬間が過ぎれば、無くなる。楽しくても悲しくても、どんなことがあっても過ぎてしまえば同じことだ、と。

でも、その老人が妻の面影を宿した女性、俺の母親、それも年格好がもし生きていたらこんなかという老女、その姿をした女性に出逢ってみると、もう矢も楯も堪らなかったってことなんだろうな。

10年前の俺にはわからなかったろう。滑稽なことをいうじいさんだとしか思わなかったろうな。でも、今の俺、68歳になった俺にはわかる。もう先はないんだ。目の前の紳士だけじゃない。この二人の女連れの俺という別の紳士にも、な。

「母はときどき会うことにしたらしい。『そんなことあちらさんは失望するだけなのにね』と言いながら、うれしそうだった。女は凄い。

それでね、俺は思ったんだ。あの老人、ひょっとして母親のこと知っているんじゃないかって。どこかで会っている。お互いにわかっていたんじゃないか。

年下なんだよな。ま、5歳がとこかな。母親が30のときなら25か。

母親、30のときなにしてたかなあって思い出してみた。よく覚えてない。俺は10歳になったかなっていないかだ。父親はいなかった。独りで、貧血なのかよく布団に横になっていた。どんな仕事をしていたのか子どものことだからわかりようもない。とにかく金を稼いで、俺に食わせてくれていた。つくづく大変だったんだろうな、と後になって思ったよ。1957年、昭和32年ころの日本だからなあ。母親の実家も貧乏で頼りにならなかったしな。巷では『有楽町で逢いましょう』とフランク永井が歌っていた。

それにしても、あの老紳士は自分の女房と似ているからなんていっていたが、それだけじゃ無く、母親のことがしんから懐かしそうだった。

つくづく人ってのは、男がいて女がいて、それしか中身はないのかって気がする。

そうかもしれない。

妻がいなくなったら妻への執着が生まれる。仕事がなくなれば仕事がしたい。人の心はままならない。

母親は俺を苦労して育てた。金の苦労だ。俺は昭和22年に生まれている。日本が世界を相手にした戦争を戦って負け、まだ2年しか経っていなかったときだ。父親の顔を俺は知らない。母親は俺がまだ小さな子どもだったころ別れたらしい。金をうちに入れない男だったからと後で聞いたことがある。

金を家に入れない男なんてのは、首のない男だ。俺はそう思って生きてきた。母親のことを思うと、いまでも不憫な気持ちに襲われる。かわいそうでならない。病気がちで働くこともままならなかった、世間のこともわからないほどにうら若い女性だった母親のことを、68歳の俺はしっかりと抱きしめてやりたい気がする。

俺の父親なる男と母親の間に本当のところなにがあったのかはよく知らない。俺の父親だ。血筋からいっても浮気者だったとしてもちっとも不思議じゃない。会ったことはない。俺なりの理由があって、実の父親に会うのは不義理で申し訳ないという気持ちで、とてもできなかった。もう死んだ。この世にはいない。どこで死んだのかも知らない。調べればわかるが、俺にはできない。

要するに、俺に人並みの人生をスタートさせてくれた人への義理立てってことになるかな。

オマエにも話したことはなかったろう。

母親が36歳だったときだ。俺は16歳だった。昭和38年。高度成長が始まっていた。或る男が月々多額の金を出してくれるようになった。俺は高校生だった。その男のおかげで俺は当たり前のように高校を卒業して、浪人までして大学にも行ったってわけだ。この男が俺のこの浮世での父親ってわけだ。義理がある。感謝している。とても感謝している」

高野の目には涙がうっすらと滲んでいるように見えた。大木は気付かないふりをしていた。高野は真っ白な洗い立てのハンカチを出すと目頭に軽く当てた。

「こいつは家内がいつも洗ってくれている。俺はなにもしない。自動的に使ったハンカチが洗い立てのハンカチになって、ズボンの左ポケットの底、定位置だ、そこに収まっている」

そう照れるようにいいながら、高野はハンカチをしまうと、ティーカップに手を伸ばした。

「で?」

大木が先をうながす。

(その3に続く。最初から読みたい方は第1章その1からお読み下さい。)

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