- 2016年12月10日 16:03
セクシャリティを巡る情報と適切さの問題 ~成宮氏からマクドナルドCMまで~
2/2諸外国のCMのように、LGBTはとにかくポジティブ!素晴らしい!なんていうCMは今の日本には似合わないし受けいれられないとは思います。しかし、情報発信の最先端である広告業界であれば、「この演出は、知らないところで誰かを傷つけるかもしれない」ということを敏感に察知してもらいたかったと思います。
とコメントされているが、これは至ってポリティカルコレクトネスに配慮されたコメントである。しかし、このCMは本当にそこが問題なのだろうか?殊更に同性同士を表現したものであることからLGBTに関連させた言及ばかりがされている。
ゲームに負けたナゲッツは突如「罰ゲーム」を受けることになり、両脇を漫才コンビ、メイプル超合金の安藤なつさんに羽交い締めにされる。そして、安藤さんの相方のカズレーザーさんがナゲッツの頬にキスをし、その写真が撮影されるという内容になっている。
そもそもこの問題は「突如」の罰ゲームとして「羽交い絞め」にして「キスをし、その写真が撮影される」という点ではないだろうか。同性だろうが異性だろうが、不意打ち的に嫌がる相手に無理矢理キスをするというのは、どちらかと言えばセクハラや強制猥褻の類の話である。つまるところ、同性同士であろうが異性であろうが、罰ゲームとしてこういった行為を「相手が嫌がっている」表現の下で行うことを気軽に奨めてしまうような表現になってしまっていることの方が問題ではないだろうか。同性での表現だったためにそこばかりがクローズアップされているが、「嫌がる相手に無理矢理そういった行為を行う」ということそれ自体が問題の本質であるように思われてならない。
セクシャルマイノリティの置かれている立場は決して強いものではないが、同時に私自身は「政治的に正しいセクシャルマイノリティ」のようなものも「イロモノとしてのセクシャルマイノリティ」と同様にどうでも良いとも考えている。異性であれ同性であれ、人間関係でしかない以上、個人個人に落とし込まれればさして大きな違いはない。特にマクドナルドのCMでは、これが異性間でのそれであったら批難されたろうか?されなかったのではないだろうか?公平さ、公正さと特権化とは異なるはずだ。これは異性間の表現であったとしても、やはり相応に批難されるべき性質は含んでいたように思えてならない。
性を巡る表現や、それがどのように扱われるべきかは、デリケートな問題である反面、モラルの問題については特にその属性の種類によって批判される基準がしばしば異なり、それが妥当であるかのように自明視されることさえある。難しい問題ではある。言及される個人の問題、当事者としての属性集団としての問題、個の全集合としての社会の問題、様々な側面があり、「知らないところで知らない誰かが傷つくかもしれない」といった曖昧な話でまとめてしまっては、結局「誰も傷つかないようにあたりさわりなく、社会・道徳・倫理的に正しいとされる表現」だけしか残らなくなってしまう。報道と表現とでの差異は当然にあるとしても、性表現を巡る「正しさ」の問題を考えた時に、この問題はそう簡単には答えは出ないだろう。BL=差別表現だと言う人もいれば、何かある度に異性愛規範の押し付けのように感じられるような様々な「多数にとっての当たり前」の表現もあり、またあれも差別これも差別とやっていって挙句に「正しい少数者」や「保護されるべき少数者」という、逆説的には「そうではない少数者」を区別していくような論考もまた数多存在する。
性を巡る表現、報道の問題は、異性愛・同性愛・両性愛に関係なく、多義的問題を孕んでいる。下劣な情報に下劣だと憤ることは容易いし、成宮氏のように人生そのものを壊されてしまうケースさえある。最善という選択は無いとしても、常によりマシな社会であるためには適切な批判と適切な許容が必要であるようには思う。そしてその適切さの線引きこそ、社会における倫理規範という極めて厄介な代物と対峙することを余儀なくされることでもある。個人個人が尊重され、また自身の意思によってその生き方を決めていくためにも、この問題は恐らく継続的永続的に考えていかなければならない問題でもあるのだろう。
まとまりもなくとりとめない文章を書いてしまっているが、ここのところあまりに立て続けにこの種の話題が氾濫し、またそれに対して様々な意見が交わされているのを見て、思いつくままに書いているので、結論らしき結論もないことはご容赦頂きたい。
- sionsuzukaze
- 広告代理店プランナーを経て個人商店を経営。政治について執筆。



