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真珠湾攻撃の責め負う米海軍提督、未だ名誉回復せず

――筆者のアンソニー・サマーズ、ロビン・スワン両氏は「A Matter of Honor: Pearl Harbor―Betrayal, Blame, and a Family’s Quest for Justice(名誉の問題:真珠湾-裏切り、糾弾、そして一族の正義への希求)」をハーパー・コリンズ社から出版した

***

 12月7日(日本時間8日)は日本軍による真珠湾奇襲攻撃75周年に当たる。こうべを垂れて犠牲者を追悼する米国人も少なくないだろう。1941年12月のこの攻撃は、米国を第2次世界大戦に巻き込んだ出来事だった。しかし、ある米国人一族にとって、この日は奇襲攻撃に端を発した個人的なドラマの中で、もう一つの悲しい一里塚になるだろう。

 彼ら一族は、奇襲攻撃された時の米太平洋艦隊司令長官だったハズバンド・キンメル海軍大将(提督)の孫たちと親戚だ。真珠湾攻撃のあと、キンメルは、ハワイ方面陸軍司令官だったウォルター・ショート陸軍中将とともに、奇襲攻撃を受けた責任と不名誉を問われた。キンメルは司令長官を解任され、4つ星(大将)から2つ星(少将)へと2階級降格されるとともに、退役を余儀なくされた。大統領委員会は短い調査の後、キンメルとショートを「職務怠慢」で有罪とした。

 当時、キンメルとショートを軍法会議にかけるよう求める声が広がっていた。また2人にはヘイトメール(憎悪の手紙)が殺到し、公人からも厳しく攻撃された。下院軍事委員会の委員長は2人の処刑すら要求した。ある引退した巡回裁判所(連邦高裁)判事はキンメルに手紙で、「あなた自身にとっても米国民にとっても何の役にも立たない」とし、自害すべきだと書き送った。

 それはキンメルにとってつるべ落としとも言える凋落だった。当時のフランクリン・ルーズベルト大統領は奇襲攻撃に先立つ1941年初め、「われわれの時代の最も偉大な海軍戦略家の一人」と彼を称賛していたからだ。キンメルは奇襲攻撃後、軍法会議を求め、自分自身を弁護しようとしたが、無駄だった。彼は1968年に死去するまで、8回の調査を通じて汚名をそそぐべく戦った。

 当初の大統領委員会は、真珠湾攻撃前にキンメルがショートと相談したり協力したりするのを怠り、状況の深刻さを適切に評価していなかったと結論した。しかしキンメルは責任感をもってショートと連絡し合い、自身に入手できる情報に照らして誠実に(日本軍の攻撃の可能性への対応を)準備していた。1944年、海軍査問裁判所は、職務怠慢はもちろん、どんな怠慢もなかったとしてキンメルを事実上無罪とした。しかし、いったん糾弾の的にされると、それがついて回った。

 (44年、これと並行して行われた陸軍の査問委員会は、ショートに対して、もっとまちまちの評決を下した。つまり彼は戦争準備を十分にしていなかったが、陸軍が適切な情報を与え続けることをせず、真珠湾攻撃直前にも決定的な情報を提供しなかったというものだった。同委員会は彼を懲戒処分とするよう提案しなかった)。

 実際は、真珠湾攻撃を受けてしまった米側の責任の大きな部分は、ハワイの司令官たちではなく、首都ワシントンにいた将官たちが負うべきものだった。1941年を通じてキンメルは偵察機や兵員をもっとよこすようワシントンの海軍本部に何度も求めていたが、同本部は彼の要請に応じなかった。応じていれば、日本の攻撃機動部隊がハワイに接近した時、これを察知していたはずだった。

 もっと悪いことに、ワシントンは、真珠湾が攻撃される公算が大きい標的の一つであることを示す情報を回すのを怠っていた。つまり日本の攻撃プランがあると現場に警戒させたはずの情報で、それをキンメルに渡すのを拒んでいたのだ。ワシントン(とりわけ海軍作戦部長だったハロルド・スターク提督)の攻撃前の数時間の逡巡と無能ぶりは際立っており、土壇場の警告ですら、真珠湾攻撃が始まって8時間後までキンメルに到達しなかった。

 当初から、チェスター・ニミッツ提督(奇襲攻撃後、キンメルの後任として太平洋艦隊司令長官となった)は、前任者キンメルに責任を押しつけるのは誤りだと考えていた。戦後の1940年代後半、その他の提督たちも声を上げ始めた。太平洋戦線で幾つか大勝利を収めたウィリアム・ハルゼー提督は回顧録の中で、同僚の将軍たちの間でキンメルが憎悪されるべきだと考えている者は皆無だとし、海軍と米政府は、キンメル提督を貶めるのではなく、「われわれのミスを認めるほどの度量をみせるべきだ」と書いた。

 戦後の議会調査はキンメルに対して新たな罪状を一切押しつけなかった。だが、汚名は消えなかった。戦争が終わったとき、戦争中の最高位のまま引退しなかった将軍はキンメルとショートだけだった。

 1950年代に、海軍人事局トップのジェームズ・ホロウェー中将がキンメルの4つ星復活を推し進めようとしたが、無駄だった。キンメルが68年に死亡すると、彼はメリーランド州アナポリスにある海軍兵学校墓地に埋葬された。彼の墓石は2つ星ではなく4つ星となっている。しかし、これは彼の息子たちが石工にそうするよう指示しただけのことだった。墓地の管理人はこれに目をつぶった。

 息子のトーマス・キンメル、エドワード・キンメルの両氏はいずれも退役海軍軍人で、後年、海軍を説得して父親の復権を目指した。

 1986年に最初の突破口があった。当時、会員約1万人を擁していた「真珠湾生存者協会(PHSA)」は、キンメルとショートの追悼を表決した。90年にはPHSAは彼ら2人を41年12月時点の肩書きに戻すことを支持した。

 翌91年、提督36人がジョージ・H.W.ブッシュ大統領に対し、2人の肩書きを戻すよう求める請願書を提出した。その年、上院議員の超党派グループはこの要請を支持した。だが、ブッシュ氏の軍事補佐官は「そうすることはキンメル提督に何の名誉にもならないし、時間と歴史が極めて思慮深く編んだタペストリー(織物)を破ることになる恐れが十分ある」との書簡をキンメルの息子たちに送った。

 実際のところはというと、時間はこの件をめぐり「誤情報のタペストリー」を頑丈に編んでいたと言える。1995年の国防総省の調査は、真珠湾での米国の間違いの責任は「広範に共有される」べきだとの結論に達した。一方、上院議員らはこの問題を追及し続けた。ジョー・バイデン上院議員はキンメルとショートの肩書きを1941年当時に戻す決議案の提出の手助けをした。ジョン・ケリー上院議員(現国務長官)は、同決議案に賛成票を投じた。バイデン氏は後に、キンメル、ショートの降格問題は「米軍事史上、最大の悲劇的な不正義だ」と述べた。

 2000年、この肩書き復活措置は国防承認法に盛り込まれ、上下両院を通過した。ビル・クリントン大統領(当時)は同法に署名したが、キンメル、ショートについて行動することなく大統領職を去った。

 キンメル総督の息子たちも既に死亡している。だが、孫のマニング・キンメル、トーマス・キンメル・ジュニア両氏とその家族は依然として戦いを続けている。オバマ大統領政権下の海軍省と国防長官への書簡は、国防総省から2度却下された。しかしキンメル一族はバイデン副大統領がオバマ政権の最終局面で行動するよう働きかけてくれると今なお希望している。

 1944年、海軍査問裁判所がキンメル提督の汚名を事実上そそいだのを受けて、同提督の弁護士は海軍長官に痛烈な書簡を送った。それは「3年近くにわたってキンメルは(真珠湾攻撃の)責任を公に追及された」とし、「彼の扱いは非米国的だ」と批判した。それはそのまま続いてきた。75年を経た今日、この間違いを正す時期はとっくに過ぎている。

By Anthony Summers and Robbyn Swan

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