- 2016年12月01日 00:10
この本がスゴい!2016(後)
1/2ノンフィクション
『見えない巨人 微生物』
別府輝彦
ベレ出版
リンク先を見る
読めば世界と我が身を見る目が変わる、一冊で一変するスゴ本。
肉眼では見えない微生物を、「巨人」と形容するのは変だな? と手に取ったのが運の尽き。「発酵」「病気」「環境」の三つの分野から一気に読ませる。地球の主を人類・昆虫・植物と持ち上げる論説は多いが、それは微生物を見ていないから。生物のなかで最古・最多・最多種で、最速で進化しつづけ、地球生命圏を支え・利用するだけでなく、地球という惑星そのものと共生する、「超個体」の生物とは微生物だということが、分かる。
ミクロからマクロまで、自由に視点を動かしながら、地球草創期から未来まで、歴史を自在に駆け巡り、マリアナ海溝から宇宙空間を縦横無尽に行き来する。酒やパンといった身近なものから、宇宙からコレラを監視する技術、耐性菌のメカニズムを借用した最先端の遺伝子工学など、興味深い斬り口がたくさんあるので、いくらでも深く・広く読める。コンパクトなのに濃密で、微小なのに壮大な、知の冒険の世界へようこそ。
著者の発想がすごいのは、微生物という小さなものを、巨大な目で捉えようとするところだ。たとえば、人体には、皮膚、口腔、腸管などに膨大な種類と数の微生物が常在している。これらを載せて共生している人体を、ひとつの生命圏とみなすことができる。これは、顕微鏡的な見方だ。
その一方で、この人体を地球レベルにまで引き上げる。せいぜい100グラムにしかならない微生物が、ヒト一人分の呼吸をすることに着目し、微生物とは、サイズを小さくすることによって、高い代謝活性と増殖能力を手に入れた生き物であると考える。そして、バイオマスの観点から、炭素と窒素という地球の生命に欠かせない二つの元素の循環を担う、最大の生物であることを示す。
40億年前に誕生して以来、地球という惑星の環境の変化に適応しながら進化する一方で、自らも地球の大気や元素循環に働きかけ、さらに他の生物と共生することによって進化を方向付け・加速してきた存在───それが微生物なのだという結論は、そのままタイトルへとつながる。
『失われてゆく、我々の内なる細菌』
マーティン・J・ブレイザー
みすず書房
[レビュー:動いているコードに触るな『失われてゆく、我々の内なる細菌』]
プログラマの格言に、「動いているコードに触るな」がある。あるいは、チェスタートンの「なぜ柵があるのかを知らないうちは、柵を外してはならない」でもいい。
問題なく動いているプログラムに不用意に手を入れると、思いもよらない不具合が出てくる(これをデグレードという)。冗長で無駄に見えて、よかれと思って直すと、関係なさそうな別の場所・タイミングで予想外の動きをするため、因果関係を見つけるのはかなり難しい。「なぜ上手く動いているか」が分からないまま改修するのは、非常にリスキーなのだ。
人体に常在し、ヒトと共進化してきた100兆もの細菌群を「マイクロバイオーム」と呼ぶ。このマイクロバイオームの多様性を描いた本書を読むと、抗生物質の濫用により、人体システムにデグレードを起こしていることが分かる。コンピュータより複雑で、何年、何十年、ともすると次の世代から影響が出るため、因果を見つけるのはもっと難しい。ここ数十年で急増した、アレルギーや自己免疫性疾患、ホルモン・代謝異常という「病気」の一部は、人体システムにおける細菌の生態系が破壊されたことが原因だと見えてくる。それも、数十年前、ともするとその親の世代に、「治療」として投与された抗生物質によるジェノサイドが引き起こした人体のデグレードそのものなのだ。
たとえば、ピロリ菌。かつて、胃がんや胃潰瘍のリスクを上昇させる「悪玉」として考えられていたが、胃食道逆流症を抑制し、食道がんを予防することが明らかになっている。ピロリ菌は、ヒトを病気から守る一方で、ヒトを病気にもするのだ。あるいは、抗生物質。安易に過剰に使われ、何百万人の子どもたちが、罹ってもいない細菌感染症のために抗生剤で「治療」されてきた結果、耐性菌の問題や代謝や免疫の発達過程に悪影響を及ぼしているという。
長い時間をかけてヒトと常在菌は共進化し、代謝、免疫、認識を含む体内システムを発達させてきた。しかし、ここ数十年で抗生物質が大量に使われるようになり、常在菌の多様性が失われつつある。人類誕生からすれば一瞬の出来事とし、著者は楽観的な見方をしている。だが、この教訓が遺されない限り、「なぜ柵があるのか」を考えない人々は喜々として柵を外し続ける未来がある。
『野性の知能』
ルイーズ・バレット
インターシフト
[レビュー:『野性の知能』はスゴ本]
「知性は脳に宿る」という固定観念を破壊してくれる。むしろ知性は身体性や環境にあることが見えてくるスゴ本。
本書はまず、動物を観察する際、擬人化の罠に囚われていないか問いかける。ヒトに似た属性の有無を探し、ヒトの基準で動物の行動を評価する。何かヒトに似た行動を取ったとしても、その行動を生んだ根源的なメカニズムまでがヒトと同じとは限らない。それぞれ異なる身体と神経系をもち、それぞれ異なる生息環境で生きているため、同じ行動原理であると考えるほうに無理がある。擬人化に偏って仮説を構築しようとすると、検証できる範囲が限定されてしまう。この擬人化のバイアスから離れると、動物はコストパフォーマンスの最も良い形で世界を「知覚」していることが分かる。
たとえば、クモやコオロギの一見「賢い」迂回行動や求愛行動が、生体に備わった器官と環境に基づくシンプルなルールに則っているかが明らかにされる。さらに、お片づけロボットやルンバの行動原理を解説し、部屋の間取りや形状がプログラムされることなしに「認知」できてしまう理由を解き明かす。同時に、「認知」「記憶」「判断」を考える上で、いかに脳に囚われているかが見えてくる。
認知プロセスを脳だけではなく、生体と環境全体まで含めて考えることで、認知科学に対するわたしの視界が一気に広がる。ユクスキュルの環世界、ギブスンのアフォーダンスから始まって、深いところまで行けるのが楽しい。ヴィトゲンシュタインはかつて、「人は眼鏡越しに見えるものと眼鏡そのものを同時に見ることはできないと指摘した。それと同じ、神経系と身体は世界に組み込まれている一要素であって、どんな生物であれ、世界をあるがままに「見る」ことはできない。ただ、それぞれに固有なやり方で経験するだけなのだ。
世界に「存在する」には様々な方法がある。自分の身体ひっくるめて、世界を拡張する一冊。
『数学の認知科学』
G.レイコフ、R.E.ヌーニェス
丸善出版
[レビュー:『数学の認知科学』はスゴ本]
人の思考のうち、最も抽象的で厳密なものは数学にある。だから、過去から現在に至るまでの人類の思考のマップがあるとするなら、その全体像の輪郭は、数学によって形作られている。つまり、数学を調べることで人の思考の構造と限界が分かる。
一方、数学は具体的なところから始まる。「数を数える」なんてまさにそうで、10進数が一般的な理由は、10本の指で数えたから。xy座標でy軸が量、x軸が時空的な変化に結び付けられるのは、重力により増えるモノは積み上がり、移動するものは横方向だから。指は10進数の、デカルト座標は時空間のメタファーであり、数学を調べることで思考の身体的な拠り所が明らかになる。
数学そのものは抽象的で厳密だが、これを理解する人は具体的で経験的な存在だ。『数学の認知科学』は、「人は数学をどのように理解しているか?」をテーマに掲げ、この具体と抽象のあいだを認知科学のアプローチで説明する。本書を貫く原則を一言でいうなら、「人はメタファーを通じて数学を理解する」になる。人の抱く抽象概念は、感覚-運動経験から推論様式(すなわちメタファー)を用いて取り込んでおり、数学の厳密さの領域の外にある。このメタファーを調べることで「人の抱く数学的概念」は明らかになると仮説立て、数学自身では明確にできない「数学的概念の本質」に迫る。「数学の説明」ではなく、「数学の理解の説明」なのだ。
具体と抽象、感覚と公理のあいだこそが本書のキモであり、ぞくぞくするほど面白い。これまで読んできた数理哲学のピースが埋まっていくと同時に、数学の素晴らしさは人の思考の素晴らしさにそのままつながっていることに気づかされる。数学に対し、普遍的・絶対的なプラトニズムを勝手に投影していたが、むしろ数学とは、人の身体と脳、認知的能力、そして日常生活と文化を基礎としているのだ。
「数学がやってきたところ」から思考の本質に迫るスゴ本。
『恐怖の哲学』
戸田山和久
NHK出版
[レビュー:ホラーで人間を理解する『恐怖の哲学』]
科学と哲学の二刀流で、ホラーから人間を探索する試み。最初は哲学的アプローチだったのが、次第に科学からの知見を取り込み、最終的に両者が手を携えて、「人はここまで分かっている」ことと、「ここからもっと(科学も哲学も)人間の深いところまで行ける」ことを指し示す。その知的探索がめちゃくちゃ面白い。
ざっくばらんな語り口で、「なぜホラーが怖いのか」から始まって、生物学的適応の説明や認知科学を経由しながら恐怖のメカニズムを解析し、最終的にその恐怖を"怖さ"たらしめている「恐怖の本質」まで降りてゆく。そこには、意識は科学で説明可能か? というとんでもなくハードな問題が待ち構えており、ラストは哲学的ゾンビとの対決になる。結末は、映画に出てくるリビング・デッドのようにはいかないが、ある意味『ゾンゲリア』のラストのようで皮肉が利いている(著者はホラー好きなくせに怖がり&痛がりなので、ダブルで効く『ゾンゲリア』は観てないはず)。
特に、「なぜ嘘だと分かっているのに、ホラーは怖いのか」は目鱗だった。ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』で読んだ認知科学からのアプローチだろうなぁと予想してて、(その予想はおおむね合っているのだが)そこへ前段でさばいた恐怖の表象論をつなげてくる。恐怖というシステムは、表象(知覚によって得られた心象)の入力から始まる。はじめは蛇や炎など実在する表象だったものが、進化の過程でさまざまなものが表象としてアドオンされ、知覚表象以外も受け付けるようになったという。「嘘なのに怖さは本物」の理屈は、ここにある。
ホラーをダシに寄り道しながら思考モデルを組み立てる。恐怖の本質と人工の恐怖の違いから、怖いという「感じ」そのものにアプローチする。ラストの哲学的ゾンビと対決は見ものだ。哲学的ゾンビとは、私たちと機能的には等価だが、意識を欠いた存在として登場する。私たちとそっくりの行動をとるが、そこに意識はないという思考実験の産物だ。ケガをしたら血が出て痛がってはいるものの、そこに痛いという「感じ」はない。著者はそれまでの思考を武器に、いったんはゾンビを退けるのだが……結末はご自身で確かめてほしい
ホラーをダシに恐怖を哲学すると、人という存在がよく見えてくる。見えにくいところは、アプローチと検証方法まで分かってくる。恐怖「の」哲学というよりは、恐怖「で」哲学する一冊。
『マネーの進化史』
ニーアル・ファーガソン
早川書房
[レビュー:偉大なる愚行の歴史『マネーの進化史』]
人類の偉大なる愚行の歴史が描かれている。貨幣の誕生から銀行制度の発達、債券と保険の発明、「信用」を売り買いするマーケットなど、4000年に及ぶ行状を眺めていると、つくづく人類は学んでいないことがよく分かる。どの時代でも新しい「信用」が様々な名前で生まれ、膨らみ、弾ける。
あるときは権力と結びつき、自己増大化が目的となり革命や戦争を引き起こし、またあるときは知識を従えて、自己理論化し高度に洗練され新たな領域を切り拓く。同じ過ちをくりかえす人類とは裏腹に、金融は過ちから多くのことを学び、変化してきた。技術革新という突然変異を繰り返し、新企業の創出という種の形成を行い、金融危機と淘汰で方向付けられる断続平衡を経てゆく、壮大な実験の歴史なのだ。それは、「金融」という得体の知れないモノが、徐々に形をなし、人にコントロールされるフリをしつつ何度も期待を裏切ってきた進化史なのかもしれぬ。
本書がユニークなのは、この狂乱を現代に投射するところ。ミシシッピ・バブルの首謀者だったジョン・ローから、エンロンの最高責任者ケネス・レイの経歴に結びつける。著者によると、「控えめに言っても」驚くほど似ているそうな。続々と暴かれる不正経理・不正取引の本質は、何百年たっても変わらない。
マネーは、貨幣、債券、株、保険、不動産など、様々な形をとり、回転率とパワーを上げてきた。この信心こそが人類にレバレッジをかけ、モノとサービスを回してきた。本書に描かれるのは、マネーを信じる人々の熱狂や苦悩だが、その「信じたい」願望を逆手にとって翻弄してきたマネーそのものが主役だろう。
人は判断力の欠如からマネーに熱狂し、忍耐力の欠如から失望し、記憶力の欠如からまた熱狂する。ちっとも歴史から学ばない人類をよそに、その思惑とは無関係に蠢くマネーの進化が、面白く恐ろしい。
『世界システム論講義』
川北稔
筑摩書房
[レビュー:『世界システム論講義』はスゴ本]
「なぜ世界がこうなっているのか?」への、説得力ある議論が展開される。薄いのに濃いスゴ本。
世界史やっててゾクゾクするのは、うすうす感じていたアイディアが、明確な議論として成立しており、さらにそこから歴史を再物語る観点を引き出したとき。「こんなことを考えるの私ぐらいだろう」と思って黙ってた仮説が、実は支配的な歴史観をひっくり返す鍵であることを知った瞬間、知的興奮はMAXになる。「世界システム論」を易しく紹介する本書を読みながら、そんな知的興奮を思う存分、味わった。
世界システム論は、近代からの世界を、一つのまとまったシステム(構造体)として捉える。近代世界を一つの巨大な生き物のようにみなし、近代史をそうした有機体の展開過程としてとらえる見方だ。そこでは、世界的な分業体制がなされており、それぞれの生産物を大規模に交換することで、はじめて世界経済全体が成り立つような、有機的な統合体である。いわゆる南北問題は、「北」の諸国が工業化される過程そのものにおいて、「南」はその食料・原材料の生産地として「開発」される。経済や社会がモノカルチャーにバンドルされてしまうわけ。
この観点から、帝国主義や北米大陸の位置づけ、ヨーロッパの優位性を論じる。世界史を学べば学ぶほど、イギリスはゲスな国家だという認識が強くなるが、それは本書でも同じ。だが、イギリスという「国」ではなく、ヨーロッパを中心とした経済のバケモノ(著者は成長パラノイアと呼ぶ)がその正体であることが分かってくる。
例えば、帝国主義。世界システム論からすると帝国主義は、地球上の残された「周辺化」可能な地域をめぐる、中核諸国の争奪戦であったと評価されている。したがって、地球全体が、ほぼこの近代世界システムに吸収され、「周辺化」できる場所がなくなったとき、つまり「世界」(ワールド)は、「地球」(グローブ)と同じ意味になったとき、大戦にならざるをえなかったという。この議論は、そのまま現アジアにおける経済開発の問題点を指し示す。日本や中国、韓国、マレーシアなどが追及している経済開発は、近代ヨーロッパ型の後追いでしかなく、「中核化」と「周辺化」の争いがどんな問題に突き当たるかは自明だというのだ。
歴史を生き物のように見る、ひとつの視点が得られるスゴ本。
『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』
ヒュー・グレゴリー・ギャラファー
現代書館
[レビュー:『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』はスゴ本]
「役に立たない人を安楽死させよう」という世の中になるなら、それはどんなプロセスを経るか?
これが、嫌と言うほど書いてある。ヒトラーの秘密命令書から始まったT4作戦を中心に、医師が「生きるに値しない」と選別・抹殺していった歴史が緻密に書かれている。対象となった人は多岐に渡る。うつ病、知的障害、小人症、てんかんに始まり、性的錯誤、アル中、反社会的行動も含まれていた。こうした人びとが何万人も、ガス室に送られ、効率的に殺されていった。ユダヤ人の迫害にばかり目が行っていて、本書を読むまで、ほとんど知らなかった自分を恥じる。本書は、不治の精神病者はガス室へ『夜と霧の隅で』で教えていただいた(hachiro86さん、ありがとうございます)。
問題は、ナチスに限らないところ。優生学をナチスに押し付け断罪することで、「消滅した」という図式にならない。社会システム化された「安楽死」(というより集団殺人)は、びっくりするほどありふれて見えて、そこだけ切って読むならば、ディストピア小説の一編のようだ。ハンナ・アレントが観察した、「悪の陳腐さ」そのもの。
著者は主張する。欧米社会では伝統的に障害者を医療の枠でとらえ、「決して回復しない病人」とみなしてきた。異なるものへの恐れ、病人や障害者の持つ弱さへの憎しみ、完璧な健康、完璧な肉体への異常な衝動は、もともとそこにあり、ナチスドイツはこの闇を白日のもとにさらしたにすぎないというのだ。
もちろん「健康」であることは望ましい。だが、「健康」を決めるのは医者だというのは少し変だ。そして、「健康」でない人は排除すべしという考えは全くおかしい。健康ジャンキーを揶揄する「健康のためなら死んでもいい」言葉があるが、ブーヘンヴァルト収容所の所長のこの言葉も負けず劣らず強烈だ「うちの収容所に病人は一人もいない。健康な人と死人だけだ」。そして、「健康か否か」の線引きが医者にのみ委ねられ、「健康か死か」という二択しかないのであれば、それは狂気の沙汰にしか見えない。
優生思想は、歴史の彼方に封印されたものではないことを思い知らされるスゴ本。



