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「故郷が台湾である私は日本で異邦人だった」 失われた故郷「台湾」を求める日本人達 湾生シリーズ1 家倉多恵子さん

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野嶋剛(ジャーナリスト)

「湾生(わんせい)」という言葉を聞いたことがあるだろうか。日本の敗戦によって台湾から日本に引き揚げた台湾生まれ、台湾育ちの日本人のことである。日本の台湾統治は1895年の日清戦争の勝利による台湾割譲から半世紀にわたり、突然、日本の敗戦によって打ち切られた。当時、台湾にいた日本人は60万人。うち湾生は20万人いたとされる。だが、彼らの物語は、戦後の「植民地統治」全面否定論のなかで、日台双方で歴史の闇に埋もれたままだった。

その湾生たちが台湾という「故郷」に続々と戻りつつあることを取り上げた台湾ドキュメンタリー映画「湾生回家(わんせいかいか)」が今月12日、東京・岩波ホールで日本公開が始まった。今後、全国で上映が続いていく。

タイトルの「回家」とは中国語で「故郷に戻る」ことを意味する。「湾生回家」は、2015年に台湾で公開され、異例の大ヒットとなり、台湾に社会現象とも言える湾生ブームを巻き起こした。なぜ、戦後70年を経て、湾生の物語が、台湾で、そして日本で、これほど注目されるのだろうか。

このシリーズでは映画に出演する湾生の方々の証言を3回に渡って紹介し、湾生とはどういう存在だったのか、台湾への思い、戦後の日本での暮らし、そして、なぜ人生のラストステージに差し掛かかるなかで「回家」、台湾に戻っていく理由を語ってもらった。一回目は家倉多恵子さんだ。

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プロフィール:家倉多恵子/1930年3月11日生まれの85歳。台北市生まれ。台北州立第一高等女学校(台北一高女)などに通い、花蓮高等女学校3年生で終戦を迎える。1946年に花蓮港から引き揚げて鹿児島に上陸し、家族の実家である福井県敦賀市に戻った。ここ10年、定期的に台湾でロングステイしている。

野嶋:お父さんは台湾総督府で働いていたそうですね。

家倉:父は敦賀の出身で、京都の同志社大学を卒業したとき、昭和の恐慌で就職が決まっていた銀行がつぶれたので、慌てて就職先を探したら総督府しかなかったそうです。母も敦賀の女学校。東京の女子美を出てから父とお見合いして台湾に来ました。

野嶋:家倉さんが台湾で暮らしたのは16年間になりますね。

家倉:はい、その当時、台北の東門というところで、日本でいえば新興住宅街に暮らしながら、のんびりと学校に通いました。いま日本人に人気の鼎泰豐というレストランがあるあたりです。近くで水牛も歩いていて、学校に行く途中に水牛に追いかけられたりしました。

父が転勤で基隆市の助役になり、基隆の双葉小学校に転校しました。台北一高女に入ったら、今後は父が桃園に転勤して、桃園から台北へ毎日汽車通学です。艋、板橋、樹林、鶯歌、桃園。通学で通った駅の名前はみんな覚えています。樹林などは本当に名前の通り、林ばかりでしたが、いまは住宅街に開発されてすごいですね。

野嶋:台湾で最後のほうの日々は戦争も激しくなっていましたか。

家倉:高校2年の終わりから3年の始めに空襲がひどくなって、いつ空襲でやられるか分からないので死ぬ時は家族一緒だということで、父のいる花蓮に転校しました。1945年8月の終戦時は女学校4年生で、翌年3月に卒業し、4月に家族みんなで一緒に日本に帰りました。引き揚げる前にまさか今のような台湾と日本が行ったり来たりできる時代が来るなんて思ってもみなかったし、二度と来られないと思っていました。

ですから、花蓮でいちばん高い山に一人で行って、山の上に立って、海から吹いてくる風と波の音をじっと自分の記憶に留めようと思いました。そして日本に戻ってから本当に毎日、毎日、そのことを思い出していました。

戦後、最初に台湾に来たのが、引き揚げから26年ぶりの41歳のときでした。そのときにまで一瞬たりとも、あの時の風の感覚や波の音を忘れないでいました。そのときは台北旅行で親戚も一緒でしたが、どうしても花蓮に行きたかった。当時、向田邦子さんが亡くなった直後で、同じ路線の飛行機に乗ってその山に行きました。そのとき、自分の記憶のなかの風と現実の風がぴったり一致して、その瞬間、記憶がぜんぶ消えてなくなってしまった。人間の記憶は不思議なものですね。その翌日から一切思い出さなくなったのです。記憶が私のなかにとけ込んでしまったような感じです。でも、その記憶に支えられて、引き揚げ後の26年間、日本で頑張ってこられたのだと思います。

野嶋:映画のなかで自分のことを「異邦人」と表現されていましたね。

家倉:日本では自分がどこか違うという感覚がずっとありました。でもそれが何だか分からなかった。だから五木寛之さんの「異邦人」という本を読んで、ああ、自分はこれなんだと思いました。経験した者ではないと理解できないでしょうが、五木寛之さんも満洲からの引揚者です。「自分は死ぬまで異邦人だ」と文章で書いておられました。

戦後のなかで、いつも私なりに、なにか周囲とすべてにちょっと違うと思ってきました。いつもどこか、はみだして、何かあると周囲とぶつかってしまう感覚です。「湾生回家」の映画でみた福井の友人は、「家倉さんがどこか普通と違うと思った理由がやっと分かった」とおっしゃいました。私は、あまり細かいところにこだわらない。そして、思ったことは押し通す。そこがまわりと違うんですね。でも、異邦人という風に自覚してからは、少しは相手に譲るべきだと思ったんですね。そのときは、もう40代です(笑)。

野嶋:ここ10年、毎年、台湾に来ているそうですね。

家倉:もうこの年齢で移動もしんどいので、来るたびに最後にしようと思っているのです。でも、最初にこの埔里に来たとき、来たことはないのに、ああ、私はここの人間になりたいと思ったのです。なぜでしょうね?ここには、あしかけ10年通っています。滞在した日数は36ヶ月にもなります。今回は1ヶ月の滞在ですが、1週間で帰る時もあります。

台湾からは10年間分の幸せをもらいました。日本にいるときと全然気分も体調も違います。もともと、体調を崩してひょっとしたらこれで終わりかなというぐらいで、もう一度、生まれた土地のエネルギーと太陽から力をもらえたら、もう少し生きられるのではないかと思って、息子からはやめておけと言われるのを振り切って来ました。

野嶋:戦後の暮らしはいかがでしたか。なぜ台湾に来られなかったのでしょうか。

家倉:台湾に来られなかった26年間は、いろんな面で、余裕のない時代でした。来たいとは思ってもなかなか叶わなかったのです。

引き揚げのとき、花蓮から鹿児島に戻りました。桜島の火山灰が降ってくるなか敦賀まで窓もないような国鉄で走りました。広島を通ったときの焼けただれた状況もはっきり覚えています。当時は原爆が落ちたことさえしらなかった。引き揚げてきた敦賀の街は全部焼けていて、列車から駅でおりたら海まで見えるぐらい何もありませんでした。

母の実家の菩提寺が焼け残っていたので、そこでしばらく暮らしました。お寺の八畳一間で。でもあの時代の日本はひどかった。しょうがないと思いました。台湾からは1000円と夏と冬の衣類二着しか持ち帰られませんでした。

引き揚げ者はとにかく貧乏。お金がない。お寺もやがて追い出されて、バラックみたいな小さな家を建てて、父が敦賀市役所の収入役になり、やっと落ち着きました。あの時代ですから、家では男の子を進学させて父からは「お前は諦めろ、許してくれ」と言われて、進学はさせてもらえなかった。

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