- 2016年11月19日 09:53
佐野慈紀を変えた盟友・野茂英雄の「説教」 佐野慈紀(近鉄バファローズ他) - 高森勇旗
佐野慈紀 (Shigeki Sano)
1968年生まれ。愛媛県の松山商業高校では高校3年時の夏の甲子園大会に出場して準優勝。投手と外野手の控え選手だった。広島県呉市にある近畿大学工学部に進学して、エースとして活躍。90年ドラフト3位で近鉄バファローズに指名されて入団。1年目から活躍し、96年オフの契約更改で中継ぎ投手で史上初の1億円プレイヤーとなる。99年オフにトレードで中日ドラゴンズへ移籍するも、結果が出ず、翌年のオフに戦力外通告を受ける。米独立リーグやメキシカンリーグを経て、2003年にオリックス・ブルーウェーブ に入団。同年オフに再び戦力外通告を受けて引退。現在は野球解説者や講演活動を行い、石川ミリオンスターズ(独立リーグ)の取締役も務めている。
(写真・Noriyuki Inoue)
「今度は試合に出られるように、最初から真面目に練習しよう」。佐野慈紀は、そう心に誓って広島県呉市にある近畿大学工学部に進学した。松山商業高校時代は、3年間控え選手だった。甲子園で準優勝した最後の夏。地元に帰ってパレードが行われるも、決勝の舞台に立てなかった悔しさが、佐野の心を支配していた。
「なんで使ってくれへんねん、ってずっと心の中で文句言ってた。でも、よく考えたら、レギュラーのあいつら、めっちゃ練習頑張ってたもんな」
父の影響で、楽しくて始めた野球。気がつけば、伝統校の野球部で先輩の顔色を気にし、要領よく練習することばかり考えていた。「試合に出なおもろない」と、甲子園の決勝戦は佐野の心にスイッチを入れた。
大学に進学後、1年生の秋から主戦で投げ始める。たとえ試合に出られなくても、「何が足りなくて試合に出られないのか」と冷静に考え、ひたすら練習した。その甲斐あって、佐野はメキメキと頭角を現した。
「3年の冬前に、目標を決めた。140キロを投げること、練習で手を抜かないこと、選手権で勝つこと、そして、プロを目指すこと」
往々にして、目標はいつの間にか忘れてしまう。そうならないために、幼馴染だった学生コーチと協力し、猛練習に励んだ。佐野は大学での4年間、すべてのリーグ戦で優勝し、自身は通算28勝。防御率は0・4という圧倒的な成績で、近鉄バファローズからドラフト3位指名を受け、入団した。
同学年の野茂から受けた「衝撃」と「説教」
「大砲の弾かと思った」
初めて目の前で見た同学年である野茂英雄の投球は、佐野に衝撃を与えた。
「とにかく、3年は必死に頑張ろう。この人たちと一緒にやりたい」
練習が実を結ぶことを、佐野は体験していた。必死に食らいつき、1年目から中継ぎ投手として38試合に登板し、プロ1年目としては及第点といえる活躍をした。ある日、毎晩のように先輩に連れられ、楽しく夜の街に繰り出していた佐野は、野茂に呼び出された。
「オマエ、それでええんか?」
強いチームを目指す野茂は、佐野の行動が効果的でないと判断したのだろう。説教は2時間に及んだ。
「そんなに外に出たいんやったら、俺が連れて行く、ってね。本気で言われたよ。でも、野茂と一緒の方がめっちゃ長かったんやけどな」
6年目のオフには、中継ぎ投手として日本プロ野球史上初の1億円プレーヤーとなる。そんな中、佐野の心は冷めていた。
「野茂もアメリカに行った。阿波野さん、大石さん、新井さん、強かった頃の先輩らがみなおらんなった。チームも弱くなったし、どんどん人が離れていく球団にも不信感が募っていった」
気がつけば、中心選手となっていた。道を正してくれる仲間や先輩はもういない。抑えがきかなくなった佐野の生活は、次第に緩んで行った。
「今思えば、中心選手になって引っ張っていく覚悟がなかったんよね」
7年目の1997年は52試合に登板するも、疲労が蓄積した肘(ひじ)は限界を超え、靭帯(じんたい)を断裂する。佐野は手術に踏み切った。
「でも、正直ホッとしたんよ。ホンマに、やる気が出んかったんや」
1年間のリハビリを終え、翌99年に復帰。完封を記録するなど復活の兆しを見せるものの、佐野の心が全盛期に戻ることはなかった。
9年目のシーズンが終わった。と同時に、電話が鳴った。相手は球団職員だった。
「クビですか?」
「いや、違う」と答えた職員は、明日事務所に来てくれと告げた。トレードだった。翌年から、佐野は中日ドラゴンズでプレーすることとなった。
心機一転、やる気に満ちあふれ、10年目のシーズンを迎えた。しかし、佐野は違和感に気がつく。
「甘えがあったよね。結果を出した選手やから、多少特別扱いしてもらえるやろうって。それが間違いやった」
中日の強力な中継ぎ陣と横一線の勝負を強いられ出遅れた佐野は、取り返そうとするも、ここで近鉄時代に練習を怠ったツケが回ってくる。
1軍になかなか上がれず、上がった試合でも1イニング4被本塁打という不名誉な記録を作り、翌日2軍落ちを経験するなど、本来の輝きは失われた。シーズン終了後、体のケアのために東京にいた佐野のもとに、球団代表から電話がかかる。
「来季の戦力としてみていない。明日、球団事務所に来てくれ」
電話を切った佐野は、一言呟(つぶや)いた。
「まぁ、そうゆう世界やな」
半ば意地になって、アメリカへ渡った。どことも契約をしないまま臨んだスプリングトレーニングで、なんとか独立リーグでの契約にこぎつけ、必死にプレーした。そこで、佐野は新たな価値観を得る。
「明日、クビになるかも分からん世界。不安で、野球が楽しくなかった。でも、そこでプレーする若手に言われたんや。『未来のことなんて考えても仕方ない。今、自分の力を信じてやるだけじゃないか』って」
ようやく、佐野は自らの日本での素行を省みた。文句ばかり言って、今やるべきことを何もしてこなかった自分を深く反省した。給料は月に15万円。その中で、佐野はプレーするごとに初心にかえっていった。
渡米2年目の2002年はメキシカンリーグでもプレーし、独立リーグに戻った後、同年オフに日本のプロ野球のトライアウトを受けた。オリックスの入団テストを経て、日本球界に復帰した。
「もう文句は言わんかった。必死に練習することも思い出したしな」
やるべきことをやる。佐野は集中力を取り戻した。しかし、プロの世界は35歳となった当時の佐野には甘くなかった。シーズン終了後、球団本部長に呼ばれ、来季は構想外であることを告げられた。
「次の人生、考えなあかんな。って、思ってる自分に気がついて、『あぁ、辞めなあかんな』って思った」
佐野は引退を選択した。
引退して最初に行ったこと。それは、履歴書を書くことだった。
「職業欄に、何も書けんかったんや。俺は、野球以外何もしていない」
野球しかないが、野球以外のことは聞けばいい。様々な人に会い、仕事を探した。持ち前の明るいキャラクターを武器に、テレビの仕事を中心に仕事は次第に増えていった。
現在48歳。50歳を迎える前に、やるべきことがある。
「腹の底から、もっとできたと思うし、やるべきやった。俺は楽な方に逃げてたんや。絶対に逃げたらあかん。それを、うわべだけでなく伝えていくのが俺の役割やと思う」
強烈な後悔は、未来への動機になる。佐野の野球人生は、まだ終わっていない。
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