- 2016年11月07日 11:19
「出張舞台」がもたらす伝統と革新~日本の伝統芸能「文楽」の魅力を堪能してきた~
夜の境内に浮かび上がる文楽の檜舞台
歌舞伎や能、文楽など、日本の伝統芸能といえば「難しそう」「見るのにお金がかかりそう」「マナーが分からない」など、鑑賞することにハードルを感じてしまう人も多いだろう。しかし、これが観光名所で開催され、価格は映画1本分程度、飲食も自由となれば、「一度は見てみたい」となるかもしれない。
撮影:北条かや

撮影:北条かや

撮影:北条かや
牛若丸と弁慶の攻防を描く「五条橋」を鑑賞
10月とはいえ夜は冷えるので、ブランケットが配られる。会場は飲食OKで、お酒を飲みながら、浅草寺で売っている屋台の焼き鳥を食べながらなど、おのおのが自由に開演を待つ。皆うきうきして楽しそうだ。本来、能も文楽も歌舞伎も、このように野外での娯楽から始まったものであることを実感する。
暗闇に美しくライトアップされた舞台(撮影:北条かや)
舞台の右手には、語りを担当する「太夫」と、三味線がそれぞれ2~3名。左側のセットで演じられる人形たちの動きに、朗々とした語りと音楽を添える。最初の演目は「五条橋」。牛若丸(のちの源義経)が初めて弁慶と出会い、仲間になるまでの戦いを描いた人気作だ。文楽になじみのない筆者でも、この物語は知っている。女装をして待ち受ける牛若丸の人形が舞台袖から出てくると、観客から大きな拍手が沸き起こった。さみどりの着物が美しく、歌舞伎の女型を見ているようだ。
1つの人形を、3人で操り息を吹き込む
文楽では1つの人形を、3人の人形使いが操る。顔まで黒い布で覆われた人形使いが2人と、顔を出して袴をまとった人形使いが1人。見ていると、袴を着た人が最も難しい「顔」を動かす作業を担っているようだ。3人の息がぴったり合い、人形に息が吹き込まれる。源氏再興をもくろむ牛若丸は、味方になる豪腕の家来を探すため、夜な夜な五条橋で強者たちに戦いを挑んでいた。ある夜、牛若丸の前に現れたのは、荒くれ者の弁慶。2人の戦いが始まった。牛若丸は身軽に華麗に飛び回り、弁慶を翻弄する。弁慶も負けてはおらず、七つ道具を駆使して牛若丸を追い詰める。

弁慶の人形を操る人形使い(撮影:北条かや)
人形使いが一人前になるまでには40年かかることも
「五条橋」で牛若丸と弁慶の軽やかな動きに魅せられたあとは、人形使いの方々が舞台に出てきて解説をしてくれる。実際に人形たちがどのような仕組みで動いているのか、男と女それぞれの人形をもってわかりやすく実演する。驚いたのは、1つの人形の内部にいくつもの糸や細かな持ち手が張り巡らされており、それら1つひとつを3人の人形使いが分担して、ひとつの「人格」を作り上げる点だ。人形使いの修行は、まず「足づかい」からスタートする。女型の人形には足がなく、着物の裾に両手を入れて前後に動かすことで「歩く」「走る」「つまづく」などの動作を表現する。生き生きと、人間らしく見える動きを再現するために、10年以上の修行が必要というから凄まじい世界だ。それから人形の左手、右手と顔の順に、技術は難しくなっていく。特に人形の表情を再現するのは至難の業だ。涙ひとつとっても、すすり泣きから号泣、悔し泣き、そして涙から笑顔になる動作まで、そのすべてが人形使いのテクニックひとつで創造される。すべてを見に付け、大成するまでには40年かかるという。

撮影:北条かや
伝統芸能の技術を身につけることは簡単ではない。40年舞台をこなしてようやく大成できる
、そんな気が遠くなる話を聞いても納得してしまうのは、鮮やかな身のこなしの人形たちを見たからかもしれない。1つの人形に3人で息を吹き込む作業は、一朝一夕で身につくものではないだろう。完成された芸術と技能を、こんなに気軽に自由に鑑賞してよいものかとすら思う。が、これこそが「にっぽん文楽」の目的なのだ。ふだん文楽になじみのない人でも、観光気分でお寺の境内を訪れ、飲み食いしながら高度な芸能に触れられる。伝統と革新は、相反するものではないのかもしれない。まだ幻想的な物語の中にいるような気分で浅草寺を後にした。
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