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「理想」と「欲望」は切り分けできないし、「萌え絵」は「日本美術」ですよね(どっちかというと)

「萌え絵」が批判されるのは歴史がないからじゃない - 最終防衛ライン3

結論が最初の方に書かれている。

「萌え絵」も「理想」のひとつであろう。「萌え絵」が批判されるのは、誇張表現だからだし、誰かにとっては「理想」ではなく「欲望」にしか見えないからだ。現在「芸術」として残っている「裸婦像」は多くの批判に耐えて残ってきたものである。果たして「萌え絵」はそれに耐えられるだけのバックグラウンドを形成できるだろうか。この点を無視して時間や歴史が解決すると結論付けるのは、いささか楽観的すぎるだろう。

「独りよがりの「理想」はしばし、欲望の発露として捉えられるだろう」ともあったが、「欲望」の発露と捉えられてはいけないというのは何故かなと思った。「理想」であり同時に「欲望」の発露でもある、ということではいけないのだろうか。ヌード絵画から少女マンガまで、ほとんどの絵がそうじゃないですか? 

”「欲望」それ自体”を貶めた書き方をすると、表現一般を貶めることに繋がらないか(もちろんそういう意図は全然ないにせよ)と懸念する。

それが「(一定の人々を不快にさせるような)「欲望」にしか見えない」から批判されたという個別の事象と、絵には「理想」も「欲望」も反映されるという一般的な事実は両立する。誰かの「欲望」が誰かを傷つけることがあるように、誰かの「理想」も誰かを凹ませることはある。というか、この二つはほとんどの場合不可分だ。

この後の西洋美術における裸体画の流れについて、思ったことをつらつらと。

古代ギリシャで、女性の裸体や半裸体、薄衣を通して身体のフォルムが手に取るようにわかる像が数多く作られたのは、神話で神が人間に似た姿を取っていることに加え、性的なものに対する感覚が今とはまったく違っていたことが大きい。

エロスは謳歌するものであっても、秘匿したり忌避したりするものではなかった。男性性器や同性愛も堂々と描かれていた。プラトンの『響宴』には異性愛と同性愛が同じ扱いで出てくる。

それを変えたのがキリスト教。キリスト教によって性規範は滅法厳しくなり、中世はヌード暗黒時代となる。

だから再度ヌード花盛りとなったルネサンスでも、あくまで神話のモチーフ(非実在)だったりキリスト教の布教目的という”錦の御旗”があった上でヌード表現は許されていた(それでも問題は生じた)し、その後の女性裸体画は長らく「◯◯のヴィーナス」「◯◯のダフネ」といったタイトルをつけることで、「これはあくまで神話のモチーフ」「非実在である」という建前を保持していた。

そういう中で裸体画の女が、建前上は非実在だが、実質は実在の女に見えることもしばしばだった。

それは当然、ポルノグラフィとしても機能していた。

貴族や豪商がお抱え絵師に伝統的な主題で絵を注文し、自室に飾り親しいセレブを招いて「どうだ、エロいだろ羨ましいだろ」と自慢する。そこに描かれた裸や半裸の女はたしかにヴィーナスやダフネだが、当世風のベッドルームにいる。横に当世風の男性が描かれることもある。「現実」に囲まれた女性の「理想像」、それは女性を見る側の「欲望」を高度に反映させ結晶化したものだ。

このことは奇しくも、「駅乃みちか」萌えキャラバージョンでも言えたことだった。ボディや顔の描き方は(誰かが女性に抱く)「理想像」だが、彼女を彩る各種アイテムは「現実」から持ってきたもの。反発した人には、それがポルノに見えたのだ。

(ちょっとエロ過ぎるんじゃないか?という裸体画は、昔はクライアントの屋敷にゾーニングされていた。今回の件も、最初からゾーニングされていたという意見を多数見た。つまり、一般人から見たらポルノ的に見えるかもしれないという配慮からゾーニングされていた、と理解していいのだろうか)

近代になって、マネがあからさまにこの「建前上は非実在だが実質は実在」の方法を取ったので、「それは言わないお約束」が崩壊してしまい大騒ぎになった。

しかしマネでもゴヤでもクールベでもそれ以外の芸術家でも、ポルノを描くのが目的だったのではない。「理想像」をあくまで追求したかったわけでもない。

芸術家にはルネサンス以来、リアリズムの追求という命題があった。「先人たちが描き尽くしたヴィーナスとか手垢のついたモチーフ経由じゃなくて、今そこにいるナマの女の姿をリアルに描きたいんだよ!」という欲求が沸き上がってくるのは必然だ。

19世紀のフランス画壇に君臨していた古典派のアングルは、ちょっと違った。あくまでギリシャ風の、非現実的なまでの理想像を手放そうとしなかった。以降、古典派(理想派)と写実派が覇権を争うが、そうこうするうちに一部の芸術家は「ありのままを写すんじゃなくて感じたままを描きたいんだよ!」とか「女とか花とか風景とかモチーフに囚われたくないんだよ!」という自己中な方向に行き始め(以下略。

参照:「エロい絵」で学ぶ西洋美術史 - NAVER まとめ

ここの1ページ目の最後の方に出てくるクールベの『世界の起源』(画像は直接貼られていないがWikipediaには出ている)こそ、あまたのエロティックな裸体画が避けて通ってきた「欲望」の真の中心だ。この「現実」において初めて、「理想」と「欲望」は分裂する。最後の個人所有者はラカンだった(さもありなん)。

西洋美術史とは、一言で言えばリアリズムの歴史だ。写真が登場して狭義のリアリズムは絵画の命題ではなくなったが、その後の抽象絵画であろうがアースワークやパフォーマンスやインスタレーションや映像表現であろうが、「現実はこうだ」「これが現代の新しいリアリズムだ」という主張が、西洋美術の底流を貫いている。

「理想」や「欲望」を手放したのではない。「現実」をあるフィルターを通した特殊なかたちで見せつつ、その底に「理想とは何か」「我々の欲望とは何だったのか」、ひいては「我々は何者か」という問いを潜ませている––––少なくとも西洋美術の文脈では、そういうものが優れた作品とされてきた(一方で美術市場はそういう建前さえ崩しつつあるが)。

記事は、このように結ばれている。

[…]「芸術」と認められるには、多くの賞賛と同様に、多くの批判にも耐える必要がある。耐えられるだけの特性と理論が必要だ。「駅乃みちか」や「萌え絵」には批判に耐えられるだけの価値があるだろうか。私は、そうあって欲しいと願う。

なぜそれが「芸術」と認められねばならないのだろう?という疑問が私にはある。認めるのは誰なのだろう。西洋美術の裸体画の流れが参照されているということは、「西洋」に認められねばならないということなのだろうか。

今回、「性的誇張表現がある→裸体を連想させる→ヌードと言えば西洋美術」という連想で、「萌え絵」の源流に西洋美術があるかのような指摘があった。たしかに、「萌え絵」(というかアニメやマンガ)の中で使われる、遠近法を始めとしたさまざまなリアリズムの表現は、西洋美術由来のものが多い。

しかし「萌え絵」を西洋美術史に直接接続し、その文脈上で評価するのは、少し難しいのではないかと私は思う。女の子の「理想像」として「誇張表現」された「萌え絵」と、あたかも「理想」的な実在が ”そこにあるかのように” 描かれている西洋美術の裸体画とは、表現のベクトルがまったく違う。

「萌え絵」はむしろ、日本の浮世絵・美人画の文脈にあるのではないか。

浮世絵で描かれる女は、細かく見れば江戸期前半と後半でも違いはあるが、「理想像」に向けてかなりの「誇張表現」がされている。

細く吊り気味の小さな目に細長く通った鼻筋、口はあくまで小さく、瓜実顔が多い。顔に対して手足(末端)は小さく、着物が幾重にも身体を覆っているわりに、時折、腰から膝下にかけてやけに細くぴったりと体にまとわりついていたりする。そこだけ、見えない後ろ側を洗濯バサミかなんかで摘んで、柔らかい体の線を浮き上がらせているかのようだ。

体に密着していない部分の着物の描線も曲線的で、エロ表現を見慣れた現代の目にも何か肉感的なものを感じさせる。役者絵にもこの傾向は見られるが、やはり美人画に顕著だ。直線裁ちの着物の着姿のシルエットが、あんなふうになることはありえない。

ここでは、露出の少ない衣装を描いて女っぽさ、エロティシズムを醸し出すための、「誇張表現」が取られているのだ。その誇張された「理想像」に、髪型と化粧で女の年齢、階級を表し、着物の柄で季節や流行を表すという「現実」感が付与されている。表現されたものの内容は違うが、方法は「萌え絵」と共通するものがある。

「萌え絵」がいわゆるエロ漫画と作画スタイルが似通っているように、美人画と春画に登場する女は同じ手法で描かれている。(キリスト教的)西洋的価値観が全面化する以前、性的な表現は濃度は違えど、空気のようにそこここにあったのかもしれない。少なくともそうした規範はゆるい面があった(たとえば明治の初め、女性が授乳に際して乳房を隠さないことに驚く外国人の記述とか)。

ただし、美人画のモデルは「萌え絵」が想定するような普通の女の子ではなく、◯◯小町と言われるような評判の美人か、◯◯太夫と言われるような花魁や芸者だった。美人画は日本画に吸収されて消えていったが、そのずっと後に、そこらにいる普通の女の子を「理想」的に描きたいという「欲望」が、少女マンガから発生。これまた、美人画とは違った「誇張表現」オンパレードの世界だった。

近代以降の日本は西洋を「目標」としたが、美意識は徐々に影響を受けても、「理想像」を独特なかたちで「誇張表現」する点は変わらず、ジャンル化されることでますます特殊な進化を遂げた(ここにまた日本特有の小さなもの幼いものを愛でる「かわいい文化」が流れ込んできていると思うが割愛)。

今では美人画も少女マンガも立派な研究対象であり、文化遺産になっている。春画は最近まで日本では展示に際して物議を醸すことがあったものの、ほぼ文化遺産の仲間入りをしている。

マンガの展覧会もあちこちで行われている現在、美術でなかったものが美術館で展示されるということは「芸術」とのお墨付きを得たということではなく(そういう例もないことはないが)、文化として研究に値する対象になっているということだ。

文化はそれが発生した土壌の地層から見なければならないから、極めて日本的な表現である「萌え絵」は、西洋美術より日本の美術を参照する方が自然に感じる。そもそも裸体画などの西洋美術は元は一部のハイソサエティのためのものであったが、浮世絵や「萌え絵」の出自はそうではない。

浮世絵などを例に出すと、「かつて西洋で芸術的評価を得た、だから「萌え絵」もということか」と思われそうだが、逆だ。すぐに西洋美術参照になったり「芸術」(その概念も西洋の産物)になるかどうかを気にするのも含めて、あっちの評価軸だけに頼る必要はないのでは?ということ。

「萌え絵」に、文化として研究に値する「(多くの批判にも)耐えられるだけの特性と理論が必要」だとすると、とりあえずさまざまな美術批評のスタイルが参照されるに違いない。マンガ研究でも普通に使われていると思う。主なものとして、

・印象批評‥‥主観を出発点とする

・フォーマリスム批評‥‥造形要素や形式を分析する

・イコノロジー‥‥図像を解釈する

・精神分析批評‥‥作り手や鑑賞者の「欲望」に沿って分析する

・ジェンダー批評‥‥ジェンダー観点から分析する

など。これ以外に「萌え絵」の場合、「公共」を巡る議論がある。

この中の三つくらいは組み合わせられそうだ。それは総論として、「理想とは何か」「我々の欲望とは何だったのか」、ひいては「我々は何者か」という問いを孕んだ日本文化論に繋がる射程を持つものになる。

何を大袈裟な‥‥と言わないでほしい。斎藤環だって「ヤンキー」をテーマに日本文化論を書いた。「萌え絵」をテーマにする人がいてもいい。文化を研究するとはそういうことじゃないか?

おそらく既にその手の研究をしている人はいるだろう。バルトの『表徴の帝国』や九鬼周造の『「いき」の構造』あたりを参照しつつ、「西洋を受け入れる以前の日本の絵画と、受け入れた後の近代美術からは漏れたものであるマンガ・アニメ表現、この二つの歴史的断絶の上に「萌え絵」はある」とか何とかいう切り口で(例えばの話です)。

村上隆はそういうことをアート作品で非常にわかりやすく自覚的にやって、オタクの人々から「アートによるオタク文化の搾取」として反発を受けたが、「文化」としてきちんと研究対象にされそれが蓄積されるということなら、オタクの人も怒らないんじゃないかと思う。

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