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ディランはノーベル賞受賞者ではない理由

今年のノーベル文学賞に選ばれた米シンガー・ソングライターのボブ・ディラン氏の受賞決定に沈黙を続けていることについて、同賞の選考委員会であるスウェーデン・アカデミーの一員が21日、ディラン氏は傲慢だと非難した。

ディラン氏は受賞を伝えるスウェーデン・アカデミーからの再三の電話に応じず、受賞決定に関して公の場でコメントしていない。

同国のテレビ局SVTによると、アカデミーの委員を務めるスウェーデン人の著名作家ペル・ワストベル氏はこうしたディラン氏の態度について「無礼で傲慢だ」と述べた。
(10/22 時事通信)
ディランのノーベル賞無視モードについては、多少なりともディランに愛着のあるファンにとっては特に驚くべきことではなく、まあそんなもんだろうな、という印象が大方だと思われるが、スウェーデン・アカデミーは違ったらしい。

この落差は何だろうか、と考察してみる。

①スウェーデン・アカデミーが激おこの理由。

これはわかりやすい。

なにしろノーベル賞の長い歴史でも、受賞を拒否した人物はほとんどいない。

政治的理由で受賞しなかった(できなかった)人を除くと、64年文学賞のサルトルくらいしかいない。

そのサルトルにしても有力候補に上った時点で、アカデミーに対してたとえ受賞したとしても辞退する旨の文書を送っているし、受賞後のコメントでもノーベル文学賞の絶対的権威を否定する(or無視する)ようなことは言っていない。

むしろ、受賞によりあまりに権威が高まりすぎるので、今後の活動に差し支えるから、などと聞き様によっては殊勝なことを言っている。
プロ野球選手の福本豊選手が国民栄誉賞を辞退した理由、「そんなもんもろたら立ちションもでけへんようになるさけ」と同じで、(賞に対する)ある種の畏れがサルトルの発言には隠されている。
(いや、哲学者って結構権威大好きなんですね。これが。)

で、今回のディランは違う。

ノーベル賞?なにそれ、モンドセレクションとどう違うの?レベルの完全シカト(←いつのまにか死語硬直してますね)は前代未聞であり、アカデミー委員が激おこ(←死語数時間経過)なのもむべなるかなの事態ではある。

②ディランはなんでもない理由。

以下憶測です。すみません。

そもそもボブ・ディランという人は、最初からフォーク歌手だったわけではなくて、プレスリーやリトル・リチャードのコピーバンドをやっていたのが、ウディ・ガスリーというプロテスト・フォーク歌手を聞いて「地面が割れたかのような衝撃」を受け、コピーしだしたのがきっかけでああいうタイプの作曲をするようになった経緯がある。

で、ウディ・ガスリー風の曲作りは全くアカデミーとは逆で、定住地を持たない貧乏白人が西海岸を目指し移動農業で糊口をしのぎつつ、ギター一本でその日暮らしを口ずさむような種類のものだった。

こういった定まった住所を持たずトレーラー・ハウス(or馬車)で移動しながら生活する人々はホーボー(hobo)と呼ばれ、カントリーやブルースをベースに旅や労働のつらさ、恋、故郷への郷愁をうたった歌は「ホーボーソング」として底辺労働者に口伝で親しまれていた。

当然、この「ホーボーソング」に正式な記録などなかったが(民族音楽研究家のジョン・ロウマックスがいくつか記録を残している)、これをプロテスト・ソング風の音楽(の存在)として初めて世に問うたのがウディ・ガスリーであった。(彼自身は比較的裕福な家の出で、教育もキチンと受けている。1929年の大不況と家の焼失などで浮浪生活に零落した。)

なので、ディランの重要なルーツには(ガスリー風の)労働者の手すさびとしての音楽、というより歌があることは否定できない。

彼は多くの音楽を作ったが、そのほとんどは「一回限り」のもので、歌い終われば、端からどんどん忘れていった。彼は生涯に1200ほど曲を作ったといわれているが、ほとんどは歌詞だけ残されていて、メロディは残されていない。ガスリーは音楽というものはメッセージを運ぶ生き物であり、その場の役割を果たせば、そのままどこかに消えていってもかまわないと考えているみたいだ。
(「意味がなければスイングはない」 村上春樹より)
ディランがノーベル文学賞を受賞するのに座りの悪さを感じるのは、彼の音楽がガスリーあるいはその手前のホーボーソングの音楽の在り方と同型、つまり作品として台座に展示され鑑賞されるようなものではなく、その都度変形しながら消費されるものだからだと思う。

ディラン自身、持ち歌の「ワッチタワー」(All along the watchtower)のジミ・ヘンドリックス版を激賞し、「彼には曲の中にある要素を見出し、それをパワフルに広げていく才能がある。彼は、おそらく、自分の内面にあるものを使って、この曲をより良いものにしている。」と語っている。

言い換えれば、ヘンドリックスはワッチタワーを「書き直す」ことによってディランの手からこの作品を受け継いだ。

実際、後年(1985年)、ディランは「おかしなもので、自分がこの曲を歌うとき、いつも彼(ヘンドリックス)に捧げているような気分になるんだよ」と言っている。

角度を変えて言うと、今回のノーベル文学賞はディランである必要(必然性)はなく、スプリングスティーンでもレナード・コーエンでもトム・ウェイツでもベックでもよかったのである。

作品全般が宛先はあるものの誰のものでもない以上、その受賞イベントに対して誰かが特別に注意を払う義務も必要もないのは当たり前だろう。
(権利上の問題はただの制度の問題に過ぎない。)

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