- 2016年10月13日 14:06
安全とは作法である――エビデンスを尋ねることから始まる新しい社会 - 岸本充生 / リスク分析
2/2安全とイノベーション
安全であることを示すにためには、手続きを踏むことが必要であることを述べたことで、2つ目の神話(安全は結果である)も神話であることは分かっていただけたかと思う。しかし、この神話の持つ破壊力は近年ますます大きなものとなっている。
それは、20世紀の末頃に、安全の挙証責任、すなわち誰が安全であることを証明しなければならいかが180度転換されたからである。20世紀初め、フォードT型の大量生産が始まり、社会に自動車が普及し始めたころは、「分からないものは安全とみなす」という前提が確かにあった。自動車が普及することによって事故データが集まってきて初めて、シートベルトやチャイルドシートなどが導入された。1950年代、そういう前提がまだ残るなかで原子力発電所も運用が開始された。
ところが、1980年代以降、遺伝子組換え作物の商業栽培のように、新技術が導入される前に反対運動によって実施が困難になる例が出てきた。安全に対する考え方が「分からないものは安全とみなす」から「分からないものは危険とみなす」へと180度転換したのである。つまり、分からない場合の前提が「安全」から「危険」に変わったのである。
新しいものを社会に持ち込みたい当事者は、安全が確保されていることをあらかじめ社会に対して示すことができなければ、それは「危険」とみなされ、社会に受容されない。2つ目の神話(安全は結果である)を変えなければ、いつまでたっても新しいものは日本社会から出てこないのである。科学技術イノベーションどころではない。
この神話の根強さは「何かあったらどうするんだ」というマジックフレーズに象徴されている。このフレーズは強力で、官公庁や企業など日本のいたるところで様々なイノベーションを阻止してきた。「何かあったら」、すなわち何か不都合なことが1つでも起これば台無しになるというのは、「安全は結果である」神話の裏返しである。
そして、この行き詰まりを脱するには、安全性を、過去の実績ではなく、作法、すなわち上に述べたような手順にきちんと従っているかどうかによって判断し、わずかに残るリスクを明示し、何か起きてしまった場合のための保険や補償メカニズムを事前に用意しておくことが必要である。
まずはエビデンスを尋ねる
それでは、安全を結果でなく作法で判断するような社会はどうすれば実現できるのだろうか。もちろん、行政や事業者が自主的に上に挙げた手順に従って安全性を示すようになれば良いが、現状そうなってない以上、放っておいてもそうなる保証は全くない。なぜこのような手順に従い、そのプロセスを公表していないかと言えば、それが社会から求められていないからだ。
そう考えると、現在ボールは社会の側にあるといえる。社会の側が、行政や事業者、そこに関係する専門家に、エビデンスを尋ねることが最初の一歩となる。安全に関して疑問に思ったり、不信感を持ったりした場合、御用学者とレッテルを貼って、「オールタナティブな」専門家を見つけてくるのではなく、まずはエビデンスを尋ねる。徹底的に尋ねる。
安全性が確保されていると主張されている場合、そのエビデンスを徹底的に尋ねていくと、必ずその中に含まれている仮定や推論や約束事があぶり出されてくるはずである。それらの妥当性を議論・検討することから、エビデンスに基づく社会が始まるのである。
参考文献村上道夫、永井孝志、小野恭子、岸本充生共著『基準値のからくり-安全はこうして数字になった』講談社ブルーバックス、2014年.
岸本充生(きしもと・あつお)
リスク分析
東京大学公共政策大学院&政策ビジョン研究センター特任教授。産業技術総合研究所安全科学研究部門研究グループ長を経て現職。専門は、様々な安全問題に関するリスク分析と経済評価。博士(経済学)。共著書に『基準値のからくり』(2014年、講談社)、共編著に『汚染とリスクを制御する(環境政策の新地平シリーズ第6巻)』(2015年、岩波書店)や『環境リスク評価論』(2009年、大阪大学出版会)など。日本リスク研究学会理事。



