記事
- 2016年10月05日 00:00
ドゥテルテ発言の背景にあるフィリピンの歴史と現状
1/2
ロシアからフィリピンを連想した訳ではないが、ロシアの次ぎにフィリピンについて書いておきたい。
フィリピンの新大統領ロドリゴ・ドゥテルテの発言の背景を知っておく必要があると思うからである。
フィリピンは、ポルトガル人のマゼランが、一五二一年、スペインの艦隊を率いて太平洋の東から到着してから三百年間以上、スペインの植民地となり国名もスペイン国王のフィリップ二世にちなんで付けられた。 しかし、スペインは、南のミンダナオなどのムスリム地帯を遂に平定できなかった。
スペインとムスリムのモロ族は、ミンダナオなどで三百年間戦い続けたのである(モロ戦争)。
さて、一九一一年以来七十四年間、アメリカ軍の正式軍用拳銃は、日本名コルト45自動拳銃(M1911、ナインティーンイレブン)であった。
そして一九八五年に軍の正式拳銃がべレッタ92Fになった後にもコルト45はアメリカ軍の特殊部隊などで現在も使われ続けている。
このコルト45の誕生こそ、フィリピンとアメリカの関係を如実に示すものであり、ひいては、今年九月のロドリゴ・ドゥテルテフィリピン大統領のオバマアメリカ大統領に対する発言につながってゆく。
一八九八年、アメリカとスペインの米西戦争の最中、戦場のアメリカ軍から拳銃に関して次の要請が参謀本部に届いた。
「一発で、敵の動きを止められるだけの威力が欲しい」
この要請を受けて、コルト・ファイヤーアームズ社がジョン・ブローニングの考案のもとに制作したのが45口径の自動拳銃コルト45である。
では、その戦場とは何処で、「敵」とは誰か。
場所は、「フィリピン」であり、「敵」とはスペイン人ではなくフィリピン人またムスリムのモロ族である。
米西戦争の最中、アメリカ軍はフィリピンでスペイン軍だけではなく、それまで、独立のためにスペインと戦っていた原住民やモロ族とも戦った。
そして、その「敵」は、アメリカ軍にとって始めて遭遇する恐ろしい敵であった。
彼らはジャングルに潜んでいて、突如、蛮刀を振りかざしながらアメリカ軍に突撃して来た。
その時、アメリカ軍の正式拳銃であった38口径の回転式拳銃では、弾が命中しても彼らは止まらず走り続けて切り込んできた。
それで、フィリピンのアメリカ軍兵士は、一発の弾で彼らを倒せる大口径弾を連続発射できる拳銃を欲したのである。
このこと、かつてアメリカ軍が出て行った後のフィリピンのスービック基地を軍事専門家のガブリエル中森氏と訪れたとき、フィリピン人の元警察官から聞いた。
彼は、コルト45を撃ちながら、この弾が当たれば、身体は後ろに飛ぶと言って、仰け反って後ろに飛ぶ身振りをした。
この時、フィリピンの民衆は、このコルト45を生み出したアメリカがフィリピンで何をしたか知っていると感じた。
米西戦争でアメリカが勝ち、スペインがフィリピンから出て行った後も、アメリカ軍は、フィリピン独立を求めるフィリピン民衆と戦い続け、スペインと三百年間戦ってきたミンダナオやパラワン島やスールー諸島のムスリムであるモロ族とも戦い続けた。
アメリカがミンダナオを制圧し全フィリピンを平定したのは、米西戦争から十七年後の一九一五年である。
その間、アメリカ軍は、ルソン島で六十一万六千人のフィリピン人を殺し、レイテ島では現地人にアメリカ軍三十八人が殺害されたことに対する報復として十万人以上のフィリピン人を殺した。
その他の多くの島々からなるフィリピン全土で、一体何百何十万人がアメリカ軍に殺されたのか私は知らない。
アメリカ軍が見せしめのためにフィリピン人を殺した残虐で執拗な殺戮の様子を、高山正之さんが週刊新潮(16.9.29)の「変見自在」に書かれている。
それを読めば、アメリカ人はシナ人と同じように残虐である。
昭和二十年の硫黄島において、アメリカ軍は次の「無期限の日本人狩り許可証」を発効している。
Jap Hunting
License
GOOD FOR DURATION OF SEASON
No,1664 Open Season
No Limit
この実物の写真を東京都写真美術館で観た(アメリカ在住杉本博司撮影、11月30日まで展示)。
この硫黄島の三十年ほど前にも、アメリカ軍はフィリピンで「フィリピン人狩り(Hunting)許可証」を発行してフィリピン人を狐を狩るように殺しまくっていたのではないか。
その時のアメリカ軍の最高司令官は、ダグラス・マッカーサーの親父のアーサー・マッカーサーだ。
しかし、昭和十七年(一九四二年)五月七日、フィリピンのアメリカ極東陸軍は、日本軍に降伏した。
その時のアメリカ軍の最高司令官は息子のダクラズ・マッカーサーで、既に部下を見捨てて家族を連れてオーストラリアに逃げ去っていた。
そして、アメリカは、日本軍がマッカーサーに見捨てられた兵士を歩かせたことをバターン半島死の行軍と、自分たちのしたことを棚に上げて日本軍は残虐だと、未だに喧伝している。
昭和十八年七月四日、日本政府はフィリピン共和国の独立を認め、ホセ・ラウレルが大統領となって東京の大東亜会議に参加してくる。
その大東亜会議における大東亜共同宣言は、人種差別撤廃と諸民族の共存共栄を掲げておりアメリカの苛酷な支配を経験したホセ・ラウレル大統領も参加各国首脳と共に感慨無量で署名したであろう。
しかし、昭和二十年九月二日、日本は連合軍に降伏し、フィリピンにアメリカ軍が戻ってきた。
フィリピン人は、以上のフィリピンの歴史の中で度々交替した支配者に関して次のように言うのだと教えられたことがある。
最初に来たスペイン人は、悪かった。
次ぎに来たアメリカ人は、もっと悪かった。
その次ぎに来た日本人は、さらに悪かった。
帰ってきたアメリカ人は、最悪だった。
フィリピンの新大統領ロドリゴ・ドゥテルテの発言の背景を知っておく必要があると思うからである。
フィリピンは、ポルトガル人のマゼランが、一五二一年、スペインの艦隊を率いて太平洋の東から到着してから三百年間以上、スペインの植民地となり国名もスペイン国王のフィリップ二世にちなんで付けられた。 しかし、スペインは、南のミンダナオなどのムスリム地帯を遂に平定できなかった。
スペインとムスリムのモロ族は、ミンダナオなどで三百年間戦い続けたのである(モロ戦争)。
さて、一九一一年以来七十四年間、アメリカ軍の正式軍用拳銃は、日本名コルト45自動拳銃(M1911、ナインティーンイレブン)であった。
そして一九八五年に軍の正式拳銃がべレッタ92Fになった後にもコルト45はアメリカ軍の特殊部隊などで現在も使われ続けている。
このコルト45の誕生こそ、フィリピンとアメリカの関係を如実に示すものであり、ひいては、今年九月のロドリゴ・ドゥテルテフィリピン大統領のオバマアメリカ大統領に対する発言につながってゆく。
一八九八年、アメリカとスペインの米西戦争の最中、戦場のアメリカ軍から拳銃に関して次の要請が参謀本部に届いた。
「一発で、敵の動きを止められるだけの威力が欲しい」
この要請を受けて、コルト・ファイヤーアームズ社がジョン・ブローニングの考案のもとに制作したのが45口径の自動拳銃コルト45である。
では、その戦場とは何処で、「敵」とは誰か。
場所は、「フィリピン」であり、「敵」とはスペイン人ではなくフィリピン人またムスリムのモロ族である。
米西戦争の最中、アメリカ軍はフィリピンでスペイン軍だけではなく、それまで、独立のためにスペインと戦っていた原住民やモロ族とも戦った。
そして、その「敵」は、アメリカ軍にとって始めて遭遇する恐ろしい敵であった。
彼らはジャングルに潜んでいて、突如、蛮刀を振りかざしながらアメリカ軍に突撃して来た。
その時、アメリカ軍の正式拳銃であった38口径の回転式拳銃では、弾が命中しても彼らは止まらず走り続けて切り込んできた。
それで、フィリピンのアメリカ軍兵士は、一発の弾で彼らを倒せる大口径弾を連続発射できる拳銃を欲したのである。
このこと、かつてアメリカ軍が出て行った後のフィリピンのスービック基地を軍事専門家のガブリエル中森氏と訪れたとき、フィリピン人の元警察官から聞いた。
彼は、コルト45を撃ちながら、この弾が当たれば、身体は後ろに飛ぶと言って、仰け反って後ろに飛ぶ身振りをした。
この時、フィリピンの民衆は、このコルト45を生み出したアメリカがフィリピンで何をしたか知っていると感じた。
米西戦争でアメリカが勝ち、スペインがフィリピンから出て行った後も、アメリカ軍は、フィリピン独立を求めるフィリピン民衆と戦い続け、スペインと三百年間戦ってきたミンダナオやパラワン島やスールー諸島のムスリムであるモロ族とも戦い続けた。
アメリカがミンダナオを制圧し全フィリピンを平定したのは、米西戦争から十七年後の一九一五年である。
その間、アメリカ軍は、ルソン島で六十一万六千人のフィリピン人を殺し、レイテ島では現地人にアメリカ軍三十八人が殺害されたことに対する報復として十万人以上のフィリピン人を殺した。
その他の多くの島々からなるフィリピン全土で、一体何百何十万人がアメリカ軍に殺されたのか私は知らない。
アメリカ軍が見せしめのためにフィリピン人を殺した残虐で執拗な殺戮の様子を、高山正之さんが週刊新潮(16.9.29)の「変見自在」に書かれている。
それを読めば、アメリカ人はシナ人と同じように残虐である。
昭和二十年の硫黄島において、アメリカ軍は次の「無期限の日本人狩り許可証」を発効している。
Jap Hunting
License
GOOD FOR DURATION OF SEASON
No,1664 Open Season
No Limit
この実物の写真を東京都写真美術館で観た(アメリカ在住杉本博司撮影、11月30日まで展示)。
この硫黄島の三十年ほど前にも、アメリカ軍はフィリピンで「フィリピン人狩り(Hunting)許可証」を発行してフィリピン人を狐を狩るように殺しまくっていたのではないか。
その時のアメリカ軍の最高司令官は、ダグラス・マッカーサーの親父のアーサー・マッカーサーだ。
しかし、昭和十七年(一九四二年)五月七日、フィリピンのアメリカ極東陸軍は、日本軍に降伏した。
その時のアメリカ軍の最高司令官は息子のダクラズ・マッカーサーで、既に部下を見捨てて家族を連れてオーストラリアに逃げ去っていた。
そして、アメリカは、日本軍がマッカーサーに見捨てられた兵士を歩かせたことをバターン半島死の行軍と、自分たちのしたことを棚に上げて日本軍は残虐だと、未だに喧伝している。
昭和十八年七月四日、日本政府はフィリピン共和国の独立を認め、ホセ・ラウレルが大統領となって東京の大東亜会議に参加してくる。
その大東亜会議における大東亜共同宣言は、人種差別撤廃と諸民族の共存共栄を掲げておりアメリカの苛酷な支配を経験したホセ・ラウレル大統領も参加各国首脳と共に感慨無量で署名したであろう。
しかし、昭和二十年九月二日、日本は連合軍に降伏し、フィリピンにアメリカ軍が戻ってきた。
フィリピン人は、以上のフィリピンの歴史の中で度々交替した支配者に関して次のように言うのだと教えられたことがある。
最初に来たスペイン人は、悪かった。
次ぎに来たアメリカ人は、もっと悪かった。
その次ぎに来た日本人は、さらに悪かった。
帰ってきたアメリカ人は、最悪だった。