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人道危機では国際社会は動かない――「地図にない国」クルディスタンの外交戦略 - 吉岡明子

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イラク北部の町エルビルには、欧州やアラブ湾岸諸国、トルコなどから国際線の直行便が就航している。空港に降り立って、小ぶりな建物を進んでいくとすぐに出入国管理の窓口がある。手の指紋を登録すると、職員がパスポートに入国スタンプを押してくれる。日本人ならばビザも不要で、この入国スタンプだけで15日間滞在できる。

ただ、これは、イラク政府の入国スタンプではない。よく見ると、スタンプには「イラク共和国-クルディスタン地域」と記されている。エルビルを主都とするクルド人の自治政府(クルディスタン地域政府)が発行した入国許可というわけだ。

なので、このスタンプだけではイラクの首都バグダッドには行けない。イラク政府は日本人の入国にあたっては、渡航前にビザの取得を義務づけていて、ビザ免除はあくまで自治政府の政策だからだ。だが、自治区の中、すなわちクルディスタンに留まる限り、この「入国」スタンプだけで何ら問題は生じない。

ちなみに、エルビルの空港にはバグダッドからも飛行機が来る。小さなターミナルには国内線と国際線の区別などなく、全員が出入国管理を通る。「国内旅行」をしているイラク人はというと、パスポートこそ持っていないが、IDカードを窓口で差し出して、やはり滞在許可を得なくてはならない。クルディスタンは、イラクの自治区とはいえ事実上、別の国のように機能している。

自治区には、独自の政府があり、議会があり、裁判所があり、警察がいて、軍隊ももっている。公的機関にはイラク国旗もちらほら見かけるが、町にはためく旗の数は、黄色の太陽が鮮やかなクルディスタンの旗の方が遥かに多い。自治区にいると、ここはイラクというより、クルディスタンなのだと実感させられる。

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クルディスタンの旗をふる若者

自治政府の独自外交

イラクの一部である以上、国家の主権に関する事柄、例えば国防、外交、金融、通信などは、自治政府ではなくイラク政府が管轄することになっている。だが、出入国管理の一件でも明らかなように、こうした主権にかかわる事であっても、自治政府はできるだけイラク政府の関与を廃して、独自路線を貫こうとしている。その一つの例が自治政府の積極的な外交だ。

自治政府は、欧米を中心に14カ所(13カ国+EU)に外交事務所を置いている。外交特権こそ持っていないが、機能としては通常の国の大使館と同じで、駐在国政府とクルディスタンとの関係構築がその主眼となる。クルディスタンの利益のためのロビー活動にも余念がない。

また、バグダードに大使館を持つ国の多くも、エルビルに領事館や大使館分館を開設している。今ではその数は28カ国に上り(名誉総領事のケースは除く)、欧米諸国が中心だが、最近はアラブ諸国やアジアの国も増えた。日本の領事館もまもなく開設される。これらの領事館の業務は、在留自国民の領事業務もさることながら、実際には、自治政府にとっての外交上のカウンターパートとしての役割が大きい。

というのも、例えばクルディスタンに進出する自国企業のビジネス支援を行うにも、最近では武装過激派組織「イスラーム国」に対する北部戦線の軍事協力や、避難民への人道支援を行うにも、そのカウンターパートは、イラク政府よりもむしろ、自治政府になるからだ。
 
そして、こうした外交官の存在を、自治政府は非常に重視する。エルビルに駐在する総領事を大使級の扱いでもてなし、要望があれば自治政府の大統領との面談もセットして、「二国間」関係の深化を熱心に訴えかける。彼らにとって、こうした外交官は、クルディスタンという国際地図上では「見えない存在」である自分たちを、世界に伝える貴重な存在なのだ。

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エルビルの中心地

クルド人の苦難

クルディスタンが現在のように、諸外国政府と公に外交関係を構築するようになったのは、ここ10年ほどのことに過ぎない。それまでのクルディスタンは長い間、国際社会から文字通り見えない存在だった。

イラクの歴史は、クルドにとっては自治を求める戦いの歴史だったと言っていい。1960年代頃から本格化したクルドの反政府武装活動は、イラク政府が弱体化した時に、あるいは外部から軍事支援が得られた時に、ペシュメルガと呼ばれるクルド兵がイラク軍にゲリラ攻撃をしかけ、イラク政府との和平交渉で自治に向けた妥協を引き出す、そして、その交渉が決裂してはまた衝突する、という繰り返しだった。

イラク政府も、北部の一部を自治区にするというアイデア自体は1970年代から受け入れていた。だが、クルドが求める自治とは、まさに今手にしているような、事実上の国家に近いものだ。それをイラク政府が受け入れることは、当然なかった。【次ページにつづく】

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