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いわゆる「日本語の乱れ」についての私見

文化庁の調査で、初めて「ら抜き言葉」を使う人が多数派になったという。 http://mainichi.jp/articles/20160922/k00/00m/040/056000c … へえ、と思うとともに、いろいろなことを感じたので今朝はそのことを書きたいと思う。

「ら抜き言葉」の乱れについては、確か、私が子どもの頃から先生がおっしゃっていたような気がする。授業の時に、「正しくは「ら」が入るのです」と言われているのを聞いて、自分自身が「ら」を入れているのか、どうか、どうも、心もとない気持ちになった。

「見れた」と「見られた」のように、「『ら』を入れると受動か可能かが分かりにくいが、『見れた』と言えばすぐに可能の表現と理解できることから、『ら抜き』が広まっているのではないか」という文化庁の推測通り、一種の合理性からそのような変化が生まれているのではないかと思う。

私は、基本的に言葉は一種の音楽(つまりは一連のクオリアのつらなり)だと思っていて、正しい、正しくない、ということよりも、その言葉からどのような印象を受けるか、の方が大切だと感じている。その意味では、「見れた」を使いたいときも、「見られた」を使いたいときも、両方ある。

「見られた」と「見れた」の使い分けは、例えて言うと、シャツをズボンの中に入れるか、それとも出すか、に似ている。TPOに応じて、その時の気分で、あるいは相手によって、使い分ければいいのかな、というくらいにしか思わない。

そもそも、「正しい」言葉というものは時代とともに変遷するものだろう。今の日本語は、平安時代の日本語と比較すれば、間違いだらけ、ということになる。数理モデルで記述すれば、ある確率過程で変移していって、それがエージェントの中で分布が変わる、というだけの話にすぎない。

「見られた」は「見れた」に長期にわたって推移していくのかもしれないし、その変化の過程を私たちは観察しているだけなのかもしれない。いずれにせよ、何が正しい日本語か、という問いには、相対的な意味しかなく、こだわっても仕方がないと私は考える。

にもかかわらず、「正しい日本語」や「日本語の乱れ」を気にする人たちが一定の割合で存在して、だからこそ、「文化庁」という「国」の機関が調査をする、というのもこの世の中の一つの側面ではあるのだろう。そのような方々に対しては、正直、ご苦労様です、という感想以外には浮かばない。

何が正しい日本語か、という議論はあまり生産的には思えなくて、むしろ、言葉のクオリアに対する敏感さと、ボキャブラリーの大きさこそが日本語話者としての勝負という気がする。言葉の乱れ、それ自体が一つのクオリアだと思っているから、「ら抜き」でもどっちでも、私は全く構わない。

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