- 2016年09月14日 17:51
「感動」するわたしたち──『24時間テレビ』と「感動ポルノ」批判をめぐって - 前田拓也
3/4感動してるヒマがあったら、まずはその障壁を取り除け
――「感動ポルノ」の「感動」が隠蔽しているものとはなんでしょうか?
ステラ・ヤングさんの同スピーチでは、彼女のキャッチーな表現それ自体もさることながら、以下の部分がより重要なものだと思います。
「私たち障害者が乗り越えるのは、皆さんが思っているようなことではありません。身体に関わるものではないのです。私はあえて『障害者』という言葉を使います。なぜなら私は障害の社会モデルを支持しているからです。私たちが住む社会からもたらされる障害は身体や病状よりもひどいという考え方です(…)闘う相手は自分たちの身体や病名ではなく、私たちを特別視し、物として扱う世界です」
この一節の含意をうまくすくい取るためには、「障害の社会モデル」と、それが批判する「障害の個人モデル」というもののみかたを理解しておく必要がありますね。
「社会モデル」については、日本では、2016年4月に施行された障害者差別解消法に反映されていることによってようやく理解が広まりつつあります。
既存の障害観である「個人モデル」は、障害者が困難に直面するのは「その人(の個人の身体能力)に障害(欠損)があるから」であり、それは個人の責任において対処し、克服すべきものだとする考えかたです。
一方の「社会モデル」は、個人の身体に問題を見出そうとするのではなくて、社会こそが「障害(障壁)」をつくっており、それを取り除くのは社会の責務である、という考えかたをします。つまり、障害者は「できない」のではなく「できなくさせられている」。これです。
社会には多様な身体をもつ人びとがいます。にもかかわらず、社会は特定の身体の存在を無視しています。学校、職場、建物や街のつくり、情報へのアクセス、そして、慣習、制度、文化など、どれをとっても健常者を基準にできあがっている。そんな社会のありかたこそが障害者を不利な状況に追いやっているのです。
にもかかわらず、求められてきたのはいつも、障害者「個人」の努力なんです。障害者は、自分の身体を、あらゆる犠牲を払ってでも既存の社会のありかたに「合わせよう」としてきました。それができないと、排除されます。社会モデルは、そのことに対する、率直な異議申し立てでもあるわけです。
なのに「感動」は、障害者が、社会のつくりだした不利を「克服」すべく「努力させられている」という側面を隠蔽してしまいます。障害者自身が自分の身体と個人的に「折り合い」をつけ、克服すべきものとして障害を捉える「個人モデル」──別名「個人的悲劇モデル」とも呼ばれます──を、結果的に温存してしまうのです。
ステラ・ヤングさんの議論のポイントは、「社会からもたらされる障害は身体や病状よりもひどい」という部分にありました。つまりこれは、「健常者が押し付けている困難を乗り越えようと障害者が努力するさまを観て感動する健常者」というマッチポンプ的なおこないがもつ欺瞞への、徹底した批判です。健常者は、障壁を乗り越えようとする障害者の姿に感動してるヒマがあったら、まずはその障壁を取り除けよ、というはなしではないでしょうか。障害者には、「がんばらなくていい権利」があるはずです。
このように、「感動ポルノ」は、「社会モデル」の文脈とセットで、きっちりと批判されるべきです。ここまで述べた意味で、わたし自身も、『24時間テレビ』的な「感動ポルノ」への批判的な立場を、基本的には共有しています。
――では、障害者のがんばる姿に感動してしまうのはダメなのでしょうか。感動しないぞ! とかたくなになるのも、違和感を感じます。
もちろん、「感動」してしまうこと自体をすっかり否定してしまうことはできない、とわたしは考えます。たとえば、パラリンピックで競技する短距離走者たちの義肢(ブレード)のフォルムのかっこよさ、美しさにしびれ、うっとりと眺め、感動してしまうわたしがいます。努力によって目標を達成し、結果、ついに自身の身体のありかたを肯定するその姿に、不覚にも涙してしまうわたしがいます。
また、入所施設や、親元を離れ、周囲の支えを得ながらやっと地域での自立生活を実現した重度障害者の誇らしげな顔を見て、うっかり泣いてしまいそうになるわたしがいます。そうした自分を、わたしは否定しきることができません。
けれど、そうした「感動する健常者」である自分を振り返って、反省する視点を決して捨て去らないことも大切です。自分自身が「障害者に障壁を押し付けている健常者」なのにもかかわらず、という欺瞞が、その「感動」には常に含まれてしまっていることを、わかったうえで引き受けることができるかどうかだと思います。



