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「感動」するわたしたち──『24時間テレビ』と「感動ポルノ」批判をめぐって - 前田拓也

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「感動ポルノ」が強固にする「障害者役割」

――「感動ポルノ」の問題点はどこにあるのでしょうか。

批判されるべき点は二点あると思います。第一に、「感動ポルノ」は、メディアを通して「あるべき障害者像」を流布し、強固にしている点です。第二に、障害者が、社会のつくりだした不利を「克服」すべく「努力させられている」という側面を「感動」が隠蔽してしまう点です。

――「あるべき障害者像」とはどのような意味ですか?

社会関係のなかでつくりあげられてきた、ステレオタイプな障害者像を問題化するにあたって、社会学や障害学では、「障害者役割」という言葉が使われてきました。「障害者役割」とは、ある社会関係のなかで、障害者が暗黙のうちに周囲からそのように振る舞うことを期待されている役割を指す概念です。言い換えれば、社会のなかで暗黙につくりだされていく「障害者らしさ」「あるべき障害者像」のことだと言ってよいでしょう。

社会学者の石川准さんは、「愛やヒューマニズムを喚起し触発するように振舞うこと」「愛らしくあること lovable」「”障害を補う” 努力を怠らないこと」だとしました(石川 1992: 118)。

――まさに『24時間テレビ』が取り上げる、障害者像ですね。

当然、実際の障害者は、みんながみんな「純粋」で「愛すべきいいやつ」でもなければ、常になにかを「がんばってる」わけでもありません。「ヤなやつ」「ウザいやつ」「内気なやつ」「金にだらしないやつ」「スケベなやつ」、要するに「ダメなやつ」は障害者にもたくさんいます。

もちろん、なにも「障害者はダメなやつばっかりだ」と言いたいのではなくて、健常者がそうであるのとおなじようにそうだ、ということでしかありません。にもかかわらず、わたしたちはしばしば、「障害を乗り越えるべく努力し挑戦し続ける障害者」(”チャレンジド challenged” !)であることを、かれらに「期待」してしまいます。障害者は、こうした「障害者役割」にふさわしいふるまいをしているあいだは、社会に受け入れられるというわけです。

また、社会学者の星加良司さんは、24時間テレビのような、わかりやすい「苦難と成功の物語」を通して描かれる障害者表象(イメージ)のもつ問題性を指摘しています。

「こうした『歪んだ』障害者イメージは、数多くの障害者の自己理解を傷つけてきた。『苦難』に満ちた生も『成功』をおさめる生も、虚像ではないにしても一面的で偏ったイメージなのであり、そのようであることを期待されることは、それ以外のありようを抑圧されることであるのだ。」(星加 2011: 246)

つまり、障害者に対して、メディアで語られるようなわかりやすい「障害者役割」が期待され、不問に付されることで、障害者の「ほかでもありえた」姿はなかったことにされてしまうというわけですね。

――ご指摘の通り、「純粋」で「愛すべきいいやつ」というイメージを、勝手にもっていました。

もちろん、障害者に主体性がないわけではありません。そうしたイメージで見られているということがわかっているので、日常的に、ちょっとした「障害者らしくなさ」を “あえて” 示すべく振る舞う人だっています。「風俗とか行っちゃうちょっとスケベなおれ」「ギャンブルにはまっちゃうわたし」「恋愛のことで常にあたまがいっぱいなわたし」などは、ときに「障害者らしさ」に逆張りするかたちであえて呈示された「わたし」だったりすることもあるでしょう。というか、そもそも健常者の「期待」に沿いようのない身体の持ち主だっているはずです。

しかし、そうした健常者の「期待」に沿わない障害者たちの姿は、健常者を不安にさせたり落ち着かなくさせたり気まずくさせたりするので、しばしばその「らしくなさ」を非難されたり、無視されたりしてしまいます。社会学者のアーヴィング・ゴッフマンはこんな風に言います。

「人びとは、障害者は障害者らしく、無能で弱々しいもの、彼らに劣るものと期待している。肢体不自由の者がこのような期待に背こうものなら、彼らは怪しみ、不安になるのだ」(ゴッフマン 1963=2001: 180)。

こうした健常者からのネガティブなリアクションを恐れ、障害者はしばしばこれを先取りするかたちで、無難に「障害者らしく」、みずから振る舞おうとしてしまいます。つまり、「障害者役割」は、一方的に押し付けられるものだという以上に、障害者自身がみずから健常者の「期待」に沿ってふるまい、「あるべき障害者像」を体現してしまうことによって、かえってゆるぎないものになってしまうことがあるのです。

――「障害者役割」が障害者の振る舞いを制限しているのですね。

もちろん、なかには戦略的に、あえて「苦難に挑むわたし」を生きようとする人もいるでしょう。そのように振る舞う自由が、当然かれら障害者にはあります。しかし、かれらが「苦難に挑むわたし」として振る舞うのは、そのように振る舞わなければ主流社会に受け入れてもらえないからなのかもしれないという視点を持たねばならないでしょう。

ならばなおのこと、健常者は、そんなかれらの姿に「感動」してしまう自分へのつっこみとともに、うっかりかれらに無理をさせてしまってはいないか、常に気にかける必要があります。健常者と障害者のあいだに「感動する/させる」という回路しか用意されていないのだとすれば、そのこと自体が排除や差別の結果にほかならないのではないでしょうか。

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