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- 2011年07月02日 10:49
突き抜けた人は、どうしてみんな子供なんだろう?
それなりに長く生きてくると「こいつには、かなわないな」と思わされる人物に会うことも増えてきます。で、気づいたんですが、そうした人物は、どうもみんな「子供」なんですよね。年齢が若いという意味ではなくて、年齢的には完全に大人なのに、振舞いや考え方が「子供」なんです。
これ、即興演劇の世界で有名なキース・ジョンストンの言葉を知ると、背後にある重要な意味が見えてきます。
普通の人は「子供」のことを「未成熟な大人」と定義して、理解しています。これは「子供」よりも「大人」のほうが優れているという考え方ですよね。でも、キース・ジョンストンは、全く逆に考えるんです。
大人とは、委縮した子供である
本質的には「子供」と「大人」の違いなんてないってことです。人間は、年齢が低いころは自分自身であり、自分らしく振舞います。でも年齢が高くなってくると「他人の目に映る自分」をつくりはじめ、自分らしさから離れていくという、ただそれだけのことなのだと思います。
突き抜けた人たちは、決まって「他人からどう見られるか」なんて気にしていない。ぜんぜん「委縮」していないんです。そんなことは「どうでもいい」って思ってます。「人に好かれたい」なんていう気持ちも、少しは残っていたりしても、基本的に無視します。
そのかわり、彼らは、自分の価値観にすごい忠誠心を持っています。価値観どおりに行動します。そうした強い意思というのは、別の言い方をすれば、世界の「あるべき姿」のビジョンです。だから、今ある不完全な世界に、怒っています。
世界を変えるのは、このような「委縮していない、怒っている子供」、すなわち「リーダー」なんですよね。そんなことを、前作『リーダーシップでいちばん大切なこと画像を見る』に書きました。で、ここまでくると、リーダーシップ教育に必要なものも見えてきます。
リーダーシップ教育の本質は「自分自身になる」ということです。だからリーダーシップ教育というのは、つくられた「大人」としての自分を「はがしていく」作業の連続であるべきです。
で、こうしたリーダーシップ教育に有効な手段が「演劇」です。先のキース・ジョンストンが即興演劇の人であることと、リーダーシップ教育の手段が「演劇」であることの間には、太いリンクがあるのです。
実は、僕は高校生のころ「演劇」をしてました。台本を書いて、役者をやって、舞台装置を作って、照明や音響もやって、演出をして、舞台監督も経験しました。当時は、完全に「演劇」を中心とした生活をしてました。
「演劇」って、そもそも恥ずかしいです。発声練習とか、もう超恥ずかしい。変なセリフとかいっぱいあるし、穴があったら入りたい感じ。でも、とにかく「表現することに、照れるな」って教わるんですね。で、あるとき「これだけ恥ずかしいことをしてるんだから、いまさら他人の目なんてどうでもいいや」ってなります。
そんな精神状態で、役者を体験すると「演じる」とはどういうことかがわかります。すると普段の自分っていうのも、じつは「他人から、かっこよく見える自分を演じている」ってことに気がつくんです。で、これは自分じゃないじゃんって思う。恥ずかしくてもいいから、自分らしく生きないとって考える。
「ペルソナ」という言葉、ご存じですか?おおかたの人間は、社会(周囲)から期待される「役割」をこなして生きているわけですが、ここの「役割」のことを「ペルソナ」っていいます。ユングによる心理学上の概念です。
もとの「ペルソナ」が意味していたのは、昔の「演劇」で使われていた「仮面」です。つまり僕たちは、社会的に優れた「仮面」を持つ人のことを「大人」と呼んでいて、この「仮面」をつけていない人のことを「子供」と感じるわけです。
突き抜けてる人が、したいことをして、嫌なことはしない「子供」だっていうのは、まあ、当たり前なんですよね。
(カブトムシ、とりにいこーぜ!)
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これ、即興演劇の世界で有名なキース・ジョンストンの言葉を知ると、背後にある重要な意味が見えてきます。
普通の人は「子供」のことを「未成熟な大人」と定義して、理解しています。これは「子供」よりも「大人」のほうが優れているという考え方ですよね。でも、キース・ジョンストンは、全く逆に考えるんです。
本質的には「子供」と「大人」の違いなんてないってことです。人間は、年齢が低いころは自分自身であり、自分らしく振舞います。でも年齢が高くなってくると「他人の目に映る自分」をつくりはじめ、自分らしさから離れていくという、ただそれだけのことなのだと思います。
突き抜けた人たちは、決まって「他人からどう見られるか」なんて気にしていない。ぜんぜん「委縮」していないんです。そんなことは「どうでもいい」って思ってます。「人に好かれたい」なんていう気持ちも、少しは残っていたりしても、基本的に無視します。
そのかわり、彼らは、自分の価値観にすごい忠誠心を持っています。価値観どおりに行動します。そうした強い意思というのは、別の言い方をすれば、世界の「あるべき姿」のビジョンです。だから、今ある不完全な世界に、怒っています。
世界を変えるのは、このような「委縮していない、怒っている子供」、すなわち「リーダー」なんですよね。そんなことを、前作『リーダーシップでいちばん大切なこと画像を見る』に書きました。で、ここまでくると、リーダーシップ教育に必要なものも見えてきます。
リーダーシップ教育の本質は「自分自身になる」ということです。だからリーダーシップ教育というのは、つくられた「大人」としての自分を「はがしていく」作業の連続であるべきです。
で、こうしたリーダーシップ教育に有効な手段が「演劇」です。先のキース・ジョンストンが即興演劇の人であることと、リーダーシップ教育の手段が「演劇」であることの間には、太いリンクがあるのです。
実は、僕は高校生のころ「演劇」をしてました。台本を書いて、役者をやって、舞台装置を作って、照明や音響もやって、演出をして、舞台監督も経験しました。当時は、完全に「演劇」を中心とした生活をしてました。
「演劇」って、そもそも恥ずかしいです。発声練習とか、もう超恥ずかしい。変なセリフとかいっぱいあるし、穴があったら入りたい感じ。でも、とにかく「表現することに、照れるな」って教わるんですね。で、あるとき「これだけ恥ずかしいことをしてるんだから、いまさら他人の目なんてどうでもいいや」ってなります。
そんな精神状態で、役者を体験すると「演じる」とはどういうことかがわかります。すると普段の自分っていうのも、じつは「他人から、かっこよく見える自分を演じている」ってことに気がつくんです。で、これは自分じゃないじゃんって思う。恥ずかしくてもいいから、自分らしく生きないとって考える。
「ペルソナ」という言葉、ご存じですか?おおかたの人間は、社会(周囲)から期待される「役割」をこなして生きているわけですが、ここの「役割」のことを「ペルソナ」っていいます。ユングによる心理学上の概念です。
もとの「ペルソナ」が意味していたのは、昔の「演劇」で使われていた「仮面」です。つまり僕たちは、社会的に優れた「仮面」を持つ人のことを「大人」と呼んでいて、この「仮面」をつけていない人のことを「子供」と感じるわけです。
突き抜けてる人が、したいことをして、嫌なことはしない「子供」だっていうのは、まあ、当たり前なんですよね。
(カブトムシ、とりにいこーぜ!)
青菜
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