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未決拘禁日数の本刑算入について:「一部算入説」批判

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“捜査・審理に必要な期間は算入されない”という考え方

一部算入説は、起訴前の拘禁期間は「捜査に必要な期間」であるから算入されないという(11) 。そして、起訴後の拘禁についても「当該事件の審理に必要と認められる期間」は――その計算方法については様々な考えがあるが――算入されないという (12)。なぜ事件の捜査や審理に必要な期間は当然に被拘禁者の負担とされなければならないのだろうか。戦後に公刊された文献でこの点を説明するものは皆無である。「われわれは現在のところ、***これを被告人の負担に帰せしめたとしても、公平の理念に反するものとは考えない」という宣言(13) 以上の説明をする論者はいない。裁判官の多くは、司法研修所が定めた方式だからとか、東京地裁の多く裁判官が行っているからなどという、法令の解釈として通用するはずのない、いわば惰性によってこの説にしたがっているのである。

ところで、“事件の捜査・審理に必要な期間は算入されない”という説は、横川敏雄判事が1948年に発表した論文 (14)で提案したものである。横川判事は「我が国文化の現段階及その現に当面する情勢下に於いて、通常の設備ありと看做さるべき裁判所並に普通の能力ありと信ぜられるべき司法官を標準とし、当該事件の捜査及審理に付、通常一般の例として、幾何の勾留期間を不可欠なりやと判断し、現実の勾留日数より、右日数を控除して、その残余の日数を算入すべし」と提案した(15) 。横川氏は、この説の根拠を説明するために10ページ(連載頁割り当ての半分!)を割いている。彼は、国家(統治する者)と国民(統治される者)とを対立的に捉えるのは誤謬であり、両者は「二にして一、対偶にして調和たるを本質とする」「不可分的全一体」である(16) ;とりわけ「国家の道義的、政治的、法律的中心として、他国に比なき万世一系の天皇がおはしまし、国家的統一、国民的一体感が特に強固」な我が国においてはそうあらねばならないと、説く(17) 。

かくの如くして、両者間の対立と摩擦を最小限度に食い止めつゝ、しかも尚国家の存立と発展のために、国民に対し或程度犠牲の強要がやむを得ざるものであり、その結果を国家或は国民のいづれかに負担乃至還元せしめなければならぬとすれば、かゝる犠牲はよろしく国民の側に負担せしむるのが、この場合、法の要請する最も妥当なる解決と信ずるものである。蓋し、国民が国家、否自らの存立と発展のために、この程度の犠牲を負担するは当然だからである。***かく考へるならば、国家の名に於て捜査審理の衝にあたるものは、常に国家の要請、司法本然の使命及国民の立場に深く思を致し、国家の現に当面する政治的、経済的乃至文化的諸状勢或は治安の状況に照し、能ふ限り国民の人格を尊重し、その権利を保障するやう努むると共に、不幸犯罪の嫌疑に問はれたるものも、自ら国家の要員たる光栄と義務に徹し、夢寝にも、国家の要請、司法の使命が奈辺に存するかを忘るゝことなく、被疑者又は被告人として、なし得る限度に於て、すゝんでその行動に協力し、以て、共々「正しき刑罰権」の実現を期するべきであるが、しかも尚捜査審理の過程に於てまぬかれ得ざる不利益は、萬やむを得ざるものとして後者に負担せしめるのが相当であると思ふのである 。(18)

横川判事は、こうした「国家観」に基づく「純理」に立脚するだけではなく、「更に現実的にも、現に捜査審理に携はりつゝあるものが、しかくその権力を濫用するの虞なしと信ぜられることと犯罪の嫌疑を受けて勾留せられるものが、ほとんど大半有罪者と認定せられつゝある現実を斟酌した結果でもある」という(19) 。

横川判事の提案は、明治憲法体制の末期に横行した「君臣一如」の天皇制国家論(20) にもとづき、被告人は「正しき刑罰権」の実現のために自ら進んで奉仕すべきであるという国家主義的訴訟観を反映するものである。それと同時に、捜査訴追機関による権力濫用はないという権力への盲信と、大部分の被疑者被告人は有罪であるという有罪推定論を基礎にしているのである。いずれの議論も、日本国憲法を採択し、かつ、国際人権規約を批准した現在のわが国において成り立つようなものではないことは多言を要しないであろう。

「捜査・審理に必要な期間は算入しない」という考え方には、こうした根本的な問題点のほかにも、様々な問題がある。そもそも、捜査・審理に必要な期間がどれくらいなのかを決定することはほとんど不可能である。司法研修所方式にしても東京地裁方式にしても、恣意的であり、根拠は薄弱である。第1回公判前の30日あるいは期日間の10日というのは「近時多くの地方裁判所」における「申し合わせ」が根拠であるに過ぎない(21) 。こうした様々な計算方式が提案されていることからも分かるように、実際にはそれは1つのフィクションであり、単なる「想定」に過ぎないのである。そのうえさらに、実際に行われた捜査や審理期間と拘禁が正当化される期間が同一であるという保証もないのである。

勾留の要件は、かなり漠然としたものであり、これを判断する資料も限られており、又その要件の判断はその時々において急速に行われるものであるから、そこにはある程度の裁量の余地がある。従って勾留はすべて客観的に捜査・審理に絶対不可欠なものであるとはいえない場合もあることは否定できないであろう。このことは次のようなことを考えれば明らかである。勾留された被疑者に対し公訴が提起されないことがあり又起訴されても無罪となるものも皆無ではない。さらに有罪とされた者の中にも実際逃亡又は罪証隠滅により訴追を免れようなどとは夢想だにしない者も含まれているであろう。他方いわゆる在宅のまま起訴される者もいる。又保釈保証金を調達できないため権利保釈の権利を有しながら勾留を甘受しなければならない者も決して少なくはない。かようにして未決勾留自体は、必ずしも、捜査・審理のために必要不可避のものではなく、捜査・審理という「合目的的性のための手段であり一種の応急措置(eine Art Notbehelf)」に過ぎないものといわなければならない。従って未決勾留を捜査・審理のために必要不可避なものとして被告人の負担に帰せしめる実質的根拠は薄弱である 。(22)

自白事件よりも否認事件の方が審理期間は長くなる。検察官が証拠請求した証拠書類の取調べに同意しなければ、その供述者を公判廷で尋問することになるので、その分審理期間は長くなる。被告側の請求により尋問や鑑定が行われる場合も、その分審理期間は長くならざるをえない。審理に必要な期間は算入されないというのであれば、被告側は審理期間をできる限り短くしようとするだろう。検察官請求の書証に同意したり、弁護側の証拠請求を控えたりするだろう。そして、たとえ無実であっても、自白に転じようとする人がでてこないとも限らない。要するに、一部算入説は、刑事被告人に憲法上法律上の権利を放棄させる圧力として作用するのである。

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