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- 2011年07月14日 15:35
学力格差を認めない公教育の停滞
公教育の充実ーーずいぶん前から言われ続けているけれども、肝心の部分は未だに何も進歩していない気がします。日教組支配の教育現場などは目を覆わんばかりかもしれませんが、そうでなくとも公立校の目指す学力レベルは低いんです。
私が小学校に通っている時からそうなのですが、クラスの中で比較的勉強の進んでいる子は、公立校は勉強するためではなく、遊ぶために行ってました。勉強は学習塾と自宅でするものだったんです。「ゆとり世代」と言われる若い子たちにも同情してしまいますが、すでに私の世代でも、落ちこぼれ対策という名の公教育メニューの格下げが起きていました。
クラスの中で一番できの悪い子に最低限のことを理解させるのが公立の小中学校の役割になっているので、優秀な子にとって学校の授業ほど退屈なものはないのです。
もちろん、ゆとりを全否定しようとは思いません。我が子の通う学校でも、「たてわり班」(全学年で構成されるグループ)での清掃や校外活動、 子供が手作りで行うイベントなど、主体性や協調性を育む全人教育的なものは、私たちの頃に比べて格段に増えています。
また、学校給食は料理も食器も相当に改善されていて、楽しく食べることとマナーよく食べることが両立しています。
とはいえ、学校で教えるべき主要な課題が「読み書き算盤」(今は「読み書き計算」というらしい)である以上は、算数・国語を主体とした教科学習にこそ最大の資源が割かれるべきだと私は思います。
しかし実態はというと、学校で習うものは学習塾の教育メニューに比べて「トゥー・リトル・トゥー・レイト」です。内容も薄っぺらなら習うタイミングも非常に遅く設定してある。
だから、学習意欲のある子に高度な勉強をさせたいと思ったら、私立校に入れるか塾に通わせるしかないんです。そして、その余裕がない家庭では「学校の試験で良い点の取れる落ちこぼれ」状態になります。それがどんな程度であるかは、優秀な子の集まる模擬試験でも受ければ一発でわかります。
もちろん、学校の授業と自宅の独学だけで物凄いレベルに到達している子もわずかにいるでしょう。でもそれは「天才」と呼ぶしかないような人種です。「学校で一番」くらいの凡人に真似のできることではない。
従って、子供に必要な教育費は学習塾や参考書の分が上積みされて跳ね上がります。必然的に「もうひとり産みたい」という人も諦めることになります。公教育のレベルが少子化を加速させていると言うと「風吹けば桶屋が儲かる」的な発想に思われるかもしれませんが、この影響は少なくないと思います。
もし学校教育の進度がもっと早くて内容が高度であれば、優秀な子は授業に真剣に取り組むし、学習塾や参考書の経費もうんと少なくてすむでしょう。そのための到達度別クラスとか、飛び級・落第なども検討されていいと私は思います。
私立高では一流校への進学率のために子供の学力を鍛えるのに必死です。しかし、公立校は学力格差を否定し、競争を否定した結果として、子供の学力に責任を負ってるとは言いがたい状況です。
公立教育で一番大事にされるのが生活態度や協調性という「躾」だったり、通信簿の評価の最初に「意欲的に取り組む姿勢」が挙げられているのも、学力向上を請け負うことから逃げる言い訳になってるような気がしてなりません。
ほんらい、躾は家庭でするものです。それを学校に期待するモンスターな親がいるのも問題ですが、家庭では躾に責任を持ち、学力は学校が請け負うーーそうした分業がしっかりとしていれば、親・子・学校の役割分担はすっきりするのではないでしょうか?
対立すればいいというものではありませんが、有り体に言えば、学校は「躾もできてない子を学校に通わすな」と親に言い、親は「この程度のことも学校は教えないのか」と言うくらいの緊張感があっていいと思います。
年齢別クラスにもそれなりの合理性と、なんといっても見た目の平等性があり、これを廃止するのは並々ならぬ努力と工夫が必要でしょう。でも、そろそろそういう悪平等的な慣習を取り払って、能力別学級を公立校でも取り入れていいのではないかと思います。
私は実体験から、程度の低いことしか教えることのできない学校の先生が、一部の生徒に不当に軽蔑されているのを知っています。そして、生徒の能力と意欲の高さが楽しいという理由で、公立校の先生が進学塾でアルバイトしていた(確か職務規定違反のはずなのに)のを知っています。
能力の高い子に高度な学習を教えてもいいのなら、やる気のある先生は勢いづくでしょう。全国学力テストすら骨抜きにした民主党政権には期待できませんが、自主参加の学力コンクールを文科省主催でやってみるのも面白い。優秀な子を育てた指導者が、まっとうに評価されるようになれば教師のレベルも上がるように思います。
そうした面からも、今の公教育は見直されるべきだと思います。
私が小学校に通っている時からそうなのですが、クラスの中で比較的勉強の進んでいる子は、公立校は勉強するためではなく、遊ぶために行ってました。勉強は学習塾と自宅でするものだったんです。「ゆとり世代」と言われる若い子たちにも同情してしまいますが、すでに私の世代でも、落ちこぼれ対策という名の公教育メニューの格下げが起きていました。
クラスの中で一番できの悪い子に最低限のことを理解させるのが公立の小中学校の役割になっているので、優秀な子にとって学校の授業ほど退屈なものはないのです。
もちろん、ゆとりを全否定しようとは思いません。我が子の通う学校でも、「たてわり班」(全学年で構成されるグループ)での清掃や校外活動、 子供が手作りで行うイベントなど、主体性や協調性を育む全人教育的なものは、私たちの頃に比べて格段に増えています。
また、学校給食は料理も食器も相当に改善されていて、楽しく食べることとマナーよく食べることが両立しています。
とはいえ、学校で教えるべき主要な課題が「読み書き算盤」(今は「読み書き計算」というらしい)である以上は、算数・国語を主体とした教科学習にこそ最大の資源が割かれるべきだと私は思います。
しかし実態はというと、学校で習うものは学習塾の教育メニューに比べて「トゥー・リトル・トゥー・レイト」です。内容も薄っぺらなら習うタイミングも非常に遅く設定してある。
だから、学習意欲のある子に高度な勉強をさせたいと思ったら、私立校に入れるか塾に通わせるしかないんです。そして、その余裕がない家庭では「学校の試験で良い点の取れる落ちこぼれ」状態になります。それがどんな程度であるかは、優秀な子の集まる模擬試験でも受ければ一発でわかります。
もちろん、学校の授業と自宅の独学だけで物凄いレベルに到達している子もわずかにいるでしょう。でもそれは「天才」と呼ぶしかないような人種です。「学校で一番」くらいの凡人に真似のできることではない。
従って、子供に必要な教育費は学習塾や参考書の分が上積みされて跳ね上がります。必然的に「もうひとり産みたい」という人も諦めることになります。公教育のレベルが少子化を加速させていると言うと「風吹けば桶屋が儲かる」的な発想に思われるかもしれませんが、この影響は少なくないと思います。
もし学校教育の進度がもっと早くて内容が高度であれば、優秀な子は授業に真剣に取り組むし、学習塾や参考書の経費もうんと少なくてすむでしょう。そのための到達度別クラスとか、飛び級・落第なども検討されていいと私は思います。
私立高では一流校への進学率のために子供の学力を鍛えるのに必死です。しかし、公立校は学力格差を否定し、競争を否定した結果として、子供の学力に責任を負ってるとは言いがたい状況です。
公立教育で一番大事にされるのが生活態度や協調性という「躾」だったり、通信簿の評価の最初に「意欲的に取り組む姿勢」が挙げられているのも、学力向上を請け負うことから逃げる言い訳になってるような気がしてなりません。
ほんらい、躾は家庭でするものです。それを学校に期待するモンスターな親がいるのも問題ですが、家庭では躾に責任を持ち、学力は学校が請け負うーーそうした分業がしっかりとしていれば、親・子・学校の役割分担はすっきりするのではないでしょうか?
対立すればいいというものではありませんが、有り体に言えば、学校は「躾もできてない子を学校に通わすな」と親に言い、親は「この程度のことも学校は教えないのか」と言うくらいの緊張感があっていいと思います。
年齢別クラスにもそれなりの合理性と、なんといっても見た目の平等性があり、これを廃止するのは並々ならぬ努力と工夫が必要でしょう。でも、そろそろそういう悪平等的な慣習を取り払って、能力別学級を公立校でも取り入れていいのではないかと思います。
私は実体験から、程度の低いことしか教えることのできない学校の先生が、一部の生徒に不当に軽蔑されているのを知っています。そして、生徒の能力と意欲の高さが楽しいという理由で、公立校の先生が進学塾でアルバイトしていた(確か職務規定違反のはずなのに)のを知っています。
能力の高い子に高度な学習を教えてもいいのなら、やる気のある先生は勢いづくでしょう。全国学力テストすら骨抜きにした民主党政権には期待できませんが、自主参加の学力コンクールを文科省主催でやってみるのも面白い。優秀な子を育てた指導者が、まっとうに評価されるようになれば教師のレベルも上がるように思います。
そうした面からも、今の公教育は見直されるべきだと思います。