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小佐野一族の御家騒動③~小佐野匠が見てきた国際興業

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ども宇佐美です。

今回は国際興業の話です。非常に長いのですが、国際興業の社員の方々、また同社の関係者の方々にとっては非常に重要な情報が多々含まれていると思うので、ぜひご一読いただき、幅広くシェアいただければと思います。(これまでの記事も国際興業社内でかなり読まれているようですが。)

ご案内の通り現在国際興業は現会長の小佐野隆正(おさのたかまさ)と小佐野匠(おさのしょう)ら亡き前社長一族との間で激しいお家騒動が展開されています。そのような中、本ブログでは騒動の内容について、特に隆正の行状・不正に焦点を当てて解説してきましたが、今回は視点を変えて小佐野匠個人の人生から見た国際興業についてまとめたいと思います。 特に国際興業社内において、匠の存在を不気味に思っている方、匠を毛嫌いしている方に読んでいただければ幸いです。

以下本題に入り、小佐野匠の経歴、歴代社長との関係、国際興業に関する将来ビジョン、など幅広く述べていくこととします。(以下敬称略)

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1.小佐野匠の経歴(大学進学まで)

そんなわけでまずは大学進学までの匠の経歴を簡単になぞることから始めたい。

匠は1981年に当時国際興業の取締役で主要子会社複数の社長でもあった小佐野政邦の一人娘、千砂の長男として誕生する。政邦は匠誕生の翌1982年に、隆正の父親である社長の小佐野榮が死去したことに伴い、国際興業の社長に就任している。創業者で榮や政邦の兄にあたる賢治には子がおらず、政邦にも息子がいなかったので匠は小佐野一族の第三世代初の男子として国際興業の後継者となることが期待され、幼い頃から厳しい教育を受けることになる。幼稚園の頃から、体操、図画工作、ピアノといった習い事の毎日で叱られてばかりの毎日だったとのことだが、その甲斐あって小学校受験では名門中の名門、慶應義塾幼稚舎(小学校)に合格する。

慶應幼稚舎での同級生には今をときめく嵐の「櫻井翔」や近い将来の自民党からの出馬が噂される「中曽根康隆」などそうそうたる面子がいたとのことである。匠自身は小学校のころから地図と歴史年表が好きな変わった少年だったらしく、古今東西の地図や百科事典を読み解くのが趣味だったらしい。ただ学校の勉強はそれほどしていたわけではなく、小学校の高学年の時分には成績不振に運動神経の悪さも重なり、コンプレックスから自信を喪失し、また両親の離婚があったことなどもあり、精神的に不安定な状態に陥り辛い毎日であったらしい。

この悪い流れはそのまま進学した慶應義塾普通部(中学校)でも続き、中学時代は本人曰く「これまでの人生でもっともつまらない時期」だったとのことで、無気力で成績も同校で毎年学年下位数名が食らう「留年」は辛うじて回避できたという程度だった。以前「当時休日に何をしていたのか」と聞いたら「昼過ぎまで寝た後は秋葉原に繰り出したり、パソコンを自作したり、ガンダムを鑑賞したりしていた」とのことだったので、かなりのオタクだったようだ。この辺「お坊ちゃんで何の苦労もなく育ってきた慶應エリート」という外部が抱きがちな彼の印象とは異なる。なお私も似たような暗い青春時代だった。

こうした状態から環境を変えて心機一転するために高校は都心を離れて慶應義塾湘南藤沢高等部に進学することにしたようで、ここでは打って変わって気力・学力ともに充実した生活を送れたとのことだった。学力に関しては、通学時間が2時間近くかかるようになったために退廃的な夜型の生活から朝型に転換し、長い電車の中での勉強などが功を奏し劇的に成績が向上したとのことで、私生活でも社交的な友人に恵まれ垢抜けて合コンなどにも勤しむようになり、総じてこの時期に「自信」というものを取り戻したようだ。余談だが当時はよく麻雀をしていたらしく、結構腕に覚えがあるらしい。

大学はエスカレーター式に慶應義塾大学経済学部に進学し、そこでは最大のゴルフサークルに加入しその中心的なメンバー、3年生では主将として、毎晩飲み歩くいわゆる「楽しいキャンバスライフ」というものを送ったらしい。ただだからといって学業がおろそかになったわけではなく、成績は安定して良好な状態を保ち、公私ともに充実していた。

2.匠と小佐野家の面々(政邦、賢治、隆正)

そして匠が大学1年生の終わりの2001年2月、匠の祖父であり養父でもあった国際興業社長の政邦が癌で亡くなる。

政邦は、匠曰く「自分の人生にとってもっとも大きな影響を与えた存在」とのことで、幼い頃から生活を共にし、背中を見てきた存在だった。当時の国際興業はグループで従業員2万人を抱える大世帯で、社会的な企業としての責任から、政邦は同社の代表取締役に加えて日本バス協会会長や帝国ホテルの会長も務めるまさに「大物」であった。政邦は毎週末側近を従えて取引先や銀行の幹部なども加えてゴルフに行くのが常で、後継者と目されていた匠はこれに参加することも多く、政邦について回る中で経営者としての考え方や人間への接し方を自然と吸収することも多かったようだ。

政邦の体調はもともと万全というわけではなく1999年に胃癌になり胃を全摘していたのだが、手術が成功したことで健康を取り戻したように見えていた。しかし2001年の年明けに体調を崩し病院で検査を受けたところ癌の再発が判明した。それからの政邦の体力の衰えは激しく、わずか一ヶ月後の2001年2月14日深夜に意識を失い、ほぼ丸3日昏睡した後の2月18日0時30分に72歳で亡くなった。この3日間で匠は政邦氏との思い出を振り返ると共に、心を整理し、彼の思いを継いで国際興業の社長になる将来の自分を意識したとのことだった。

なお小佐野家および国際興業における伝説的存在である小佐野賢治が亡くなったのは1986年のことで当時匠はまだ5歳だったが、賢治の大邸宅(匠の実家の目の前にあった)で遊んでもらっていたことからはっきり記憶に残っているとのことだった。賢治の葬式は彼にとって初めて「死」というものを実感した体験だったようで、仮通夜で接した納棺前の冷たくなった身体、1.3kmにも及んだ弔問の列、字はまだ読めなかったものの大きく写真が載った新聞での賢治の特集、葬儀で流れていた音楽などは今でも鮮明に頭の中に残っているとのことだった。

話は逸れたが、政邦死去後に、国際興業は匠の戸籍上は従兄にあたる”因縁の”小佐野隆正が社長の座を継ぐことになる。ただこの時点で匠と隆正の関係は決して悪くはなく、隆正は「自身には一人娘しかいないから」と、将来的に匠に経営を禅譲するということを度々明言していたようである。もっとも、当時の国際興業の最大株主は政邦の遺族だった為、隆正が社長でいる為には、その賛同は必須条件だった。その後の展開は以前の記事に書いた通り酷いものとなったのだが、、、

このように政邦が亡くなった時点で匠は小佐野一族内で自他共に認める「国際興業の次期社長」と目される立場になった。彼自身それを十二分に自覚していて、大学卒業後は国際興業のメインバンクであったUFJ銀行に就職して数年経験を積んだ後に国際興業に入社する予定が関係者の間で組まれており、本人もその道を受け入れ歩むつもりでいた。

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